福島地方裁判所いわき支部 昭和57年(ワ)35号 判決 1988年12月14日
原告
坂本善次郎
右訴訟代理人弁護士
折原俊克
同
大塚一男
被告
国
右代表者法務大臣
林田悠紀夫
右指定代理人
猪狩俊郎
外五名
被告
甲野一郎
右被告ら訴訟代理人弁護士
丸山實
主文
一 被告国は、原告に対し、金二五七八万七〇二五円及びこれに対する昭和五七年三月四日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告の被告国に対するその余の請求及び被告甲野に対する請求はいずれも棄却する。
三 訴訟費用中、原告に生じた費用の二分の一、被告国に生じた費用の一〇分の一、被告甲野に生じた全費用を原告の負担とし、原告及び被告国に生じたその余の費用を被告国の負担とする。
四 この判決は、一項に限り、そのうち金一〇〇〇万円の限度で仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは、原告に対し各自金一億二九六七万一三五五円及びこれに対する被告国においては昭和五七年三月四日から、被告甲野一郎においては同月六日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁(被告ら)
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
3 仮執行免脱宣言(被告国のみ)
第二 当事者の主張<省略>
第三 証拠<省略>
理由
第一本件詐欺事件の公訴事実の概要が別紙一及び二記載の各事実のとおりであること、原告が別紙一の事実に基づいて昭和五〇年二月四日逮捕され、同月六日より勾留されたうえ、同月二五日には、別紙一の約束手形詐欺の事実により、同年四月二二日には、別紙二の山林等詐欺の事実により福島地方裁判所いわき支部に起訴されたこと、同裁判所は、右事件を併合審理し、昭和五二年四月二五日、原告に対して懲役三年六月の実刑判決を言渡したが、原告はこれに控訴し、控訴審裁判所である仙台高等裁判所は昭和五六年五月二〇日原告に対し無罪の判決を言渡し、右判決は同年六月四日確定したこと、本件公訴を提起し、刑事第一審において、その追行にあたった検察官が福島地方検察庁いわき支部所属の検事であった被告甲野であることは当事者間に争いがない。
第二警察官の行為について
原告は、本件詐欺事件の捜査を担当した福島県警察いわき中央警察署の警察官らの捜査遂行上の違法行為を理由として、被告国に対し、国家賠償法一条及び三条一項に基づく損害賠償を求めている。
一まず、国家賠償法一条に基づく責任について考えると、警察法及び地方自治法に照らし、警察事務は、検察官が自ら行なう犯罪の捜査の補助にかかるもののような例外を除いて、一般の司法警察事務を含め、都道府県の事務に他ならないところ、本件原告主張の警察官の捜査遂行上の行為は、いずれも右例外に属しない一般の司法警察事務即ち地方公共団体である福島県の事務に属し、その公権力の行使に他ならないから、これに伴う違法行為に関しては、福島県が賠償義務を負うことがあっても、国が賠償義務を負うことはないと解すべきである。従って、本件警察官の行為について、国が国家賠償法一条により責任を負うと言うことはできない。
二次に、国家賠償法三条に基づく責任について検討するに、原告は、国は警察法三七条に基づき、都道府県警察の経費の全部又は一部を負担しているのであるから、国家賠償法三条一項の費用負担者にあたると主張するが、警察法三七条一項各号の費用は、いずれも国家的見地から支弁するのが相当と解されるものであって、都道府県警察の組織運営上の原則的経費とは言い難いものであり、もちろん本件のごとき一般的捜査の費用等は含まれていないうえ、国庫が右の支弁を無制限かつ全面的に行なうものではなく、政令によって定められたものに限られるのであるから、同規定を根拠に国を費用負担者と言うことはできない。従って、本件警察官の行為について、国が国家賠償法三条の責任を負うと解することもできない。
第三検察官の行為について
一本件各公訴提起の適否
1 検察官が、捜査終結時の証拠に基づき、犯罪の嫌疑が十分で有罪判決を得られる見込があると判断して公訴を提起した場合には、たとえ訴訟終結時の証拠に基づき無罪の判決が確定したとしても、右公訴提起が常に違法となるのではなく、当該検察官が、公訴提起時において有罪判決を得る合理的な見込みを有していた場合には、右公訴提起は適法と言わなければならない。
しかしながら、検察官が、公訴提起時に有する証拠の評価及び経験則の適用を誤り、又は事案の性質上当然なすべき捜査を怠るなど適切な証拠収集に務めなかったなどのため、客観的に見てその収集証拠からは犯罪の嫌疑十分とは認められず、従って、有罪判決を得る合理的見込みがあるとは言えないにもかかわらず、これを看過して公訴を提起するに至った場合には、かかる起訴行為は違法であり、これにつき検察官には過失があると解するのが相当である。
そこで、以下、本件検察官の公訴提起行為が右に述べた意味で、有罪判決を得る合理的見込みのあったものと言えるかどうかを検討する。
2 ところで、本件詐欺事件は、詐欺に至るまでの経過が長く、その間に多くの出来事が存在し、これに関係した者の数も相当数にのぼる複雑な事件であるので、まず初めに、本件の発端から起訴に至るまでの外形的事実を中心とした事実経過の概要を、起訴時に存した証拠資料等に基づいて認定し、しかる後に原告の犯罪の成否をめぐる各個の問題点を検討することとする。
<証拠>によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
(一) 昭和四五年一二月ころ、平運輸株式会社(以下「平運輸」という。)代表取締役猪狩四郎は、自己所有の福島県いわき市平字祢宜町等所在の地積約五〇〇〇坪の宅地(以下「猪狩土地」という。)を売却することとし、戊野味噌醸造株式会社(以下「戊野味噌」という。)の代表取締役で右平運輸の副社長でもあった戊野四郎(以下「戊野」という。)を保証人とし、戊野方に古くから出入りし、戊野を「兄さん」と呼ぶ程親しい間柄にあり、猪狩方にも出入りしていた当時第一生命保険相互会社東洋支部長の原告に右土地の売却方を委任した。右委任にあたっては、猪狩から坪当り単価五万円以上との希望が表明されたが、代金総額その他はっきりとした売買条件は付されなかった。戊野は、当時、猪狩四郎の妻猪狩ヨシ子に対し、一〇〇〇万円以上の貸金を有し、その回収に苦慮していたことから、猪狩土地売却代金のうちからこれを回収しようと考え、進んで右保証人になり、かつ猪狩土地売却の実現を強く望んでいた。右猪狩から原告への委任は、当初昭和四五年一二月二六から二か月限りとされていたが、昭和四六年一二月ころ、猪狩から無期限で更新され、昭和四八年五月二二日に至って猪狩から解約された。
戊野及び原告は、右依頼を引き受けて買手を探していたところ、原告が、知人から埼玉県在住の土建業者である丁野三郎(以下「丁野」という。)を紹介され、さらに丁野から、昭和四六年一月ころ、ロッテグループ株式会社中山の相談役と称する乙野二郎(以下「乙野」という。)を紹介された。
(二) 乙野は、実際はロッテ又はロッテグループの会社の役員又は社員ではなく、以前ロッテに不動産を紹介したことがある一不動産業者に過ぎず、かつ、詐欺罪五回を含め前科八犯を有する者であったが、原告らとの接触の当初原告らに対し、自分はロッテの不動産取引にあたっており、ロッテの不動産買付はすべて自分を通してなされるなどと説明してロッテで猪狩土地を買う旨言明し、昭和四六年二月二三日、ロッテ代表取締役重光武雄名義の乙野宛猪狩土地の買付書を偽造して、原告らに交付した。
(三) その後原告と戊野は、猪狩土地の売却交渉のため乙野方を繰り返し訪れたが、その際乙野から、同人が、戦国武将尼子勝久の末裔であり、親族には地方の有力者がいて資産も相当あるうえ、政治家中曽根康弘の秘書をしたことがあり、現在はロッテの土地買収を一手に引き受けていて、ロッテの社長とも親しく同社長に対し影響力があるなどと聞かされ、昭和四六年七月ころまでに乙野をロッテと関係の深い力のある大人物と信じるようになった。
(四) 乙野は、昭和四六年初めころ、ロッテの顧問で、ロッテの不動産取引を手がける株式会社中山の社長でもある中山保雄に対し、猪狩土地をロッテに買わせてほしいと話をもちかけ、右中山はこれに対し、同年六月頃、猪狩土地の現地調査に来たが、同人は帰りの車中で乙野に対し、土地が広過ぎること等を理由にロッテに買わせるのは無理である旨を告げ、その後、乙野からの働きかけにかかわらず、ロッテに購入方を働きかけず、また乙野に対し購入を検討するような話をしなかった。
(五) 同年九月ころ、原告と戊野は、猪狩土地売却を推進しようとしている戊野が資産家であることを示してロッテや乙野の信用を得、右土地売却の話を促進して貰うため及び戊野が右土地売却を契機にロッテと取引関係に入るべき場合のことも考え、戊野保管に係る同人の長男戊野十郎(以下「十郎」という。)名義の土地多数筆の登記済証(生前贈与証)を乙野に持参し、乙野に預けた。
(六) 乙野は、ロッテが土地を買収する方法について、一旦乙野が土地を買い取り、担保権等を消滅させて一切の負担のない土地としたうえでロッテに売却する旨の説明を原告や戊野らにしていた。乙野は、右買取りのための資金を捻出するため、平運輸の手形を振出してくれるよう戊野に依頼し、戊野は、同年一〇月ころ、平運輸振出の手形一〇枚(いずれも額面一〇〇〇万円)を振出し、乙野に交付した。
このころ戊野は、乙野から猪狩土地上にロッテ会館を建設する旨の話を聞き、乙野の力でロッテからロッテ商品の販売権を譲り受けてロッテの東北総代理店にさせてもらいたい旨頼みこみ、乙野はこれを約束した。
戊野は昭和四七年に入ってからも平運輸振出手形三枚を乙野に預けた。
(七) 昭和四六年一二月二四日、乙野は、ロッテ商事株式会社代表取締役重光武雄名義原告宛のロッテにおいて猪狩土地を昭和四七年四月二八までに買受けたい旨の買付書を偽造してこれを原告に交付し、その際、原告から乙野に一切の迷惑をかけないことを確約のうえ右買付書を受領した旨の念書を差し入れさせた。
(八) 昭和四七年二月八日、原告、戊野、丁野が乙野宅に集まり、乙野との間で、売主猪狩四郎代理者坂本善次郎、買主乙野二郎、立会保証人戊野四郎、同丁野三郎、代金坪あたり六万円、手付金一〇〇〇万円、これを契約と同時に授受した旨、残金支払日同年四月二八日とする旨の猪狩土地の土地売買契約書を作成した(但し、現実に手付金は交付されなかった)。しかし、同年四月二八日になっても残金の支払いはなく、同月二九日、原告と戊野は、乙野と交渉の末、両名連名で更に丁野を立会保証人として残金の支払を同年六月一五日まで延期することを認める旨の同年四月二九日付延期証を作成した。
(九) ところで、乙野は、昭和四七年三月ころ既に、土地取引の結果、ロッテに対して一億円を超える負債を負い、そのうち七〇〇〇万円を同年六月ころ朋栄企業株式会社から借りてとりあえず返済したものの、右朋栄企業に対する債務の返済期限が同年七月末日に迫っていたうえ、妻花子の叔父浜順一所有の静岡県熱海市所在の土地等不動産(以下「浜土地」という。)が担保権者の三菱商事株式会社により処分されそうになったため、同年五月二二日乙野が連帯保証人になって売主右浜、買主をロッテグループの株式会社光潤社とし、代金一億二〇〇〇万円、期限同年八月一〇日の買戻約款付売買契約を締結してその代金受領の形で一億円の融資を受け、これらの金をもって右三菱商事に債務を支払い、一旦右浜土地を確保したものの、今度は右光潤社との間の買戻し期限が迫り、右資金に窮していたことから、資産を有する戊野からその経営にかかる戊野味噌の約束手形を振出させ、さらに同人の不動産を担保にロッテ以外の者から融資を受けて、右買戻し資金や自己の負債等の弁済に充てようと考えるに至り、同年六月ころ、金融ブローカーの川崎源一に対して、戊野の手形及び不動産を担保に供する旨告げて三億円の融資を申し込んだ。
(一〇) 同年七月初めころ、乙野は、原告同席の場で戊野に対し、融資金の大半を自己の右浜土地買戻し資金その他の債務の弁済に充てるつもりであることを秘し、融資金は猪狩土地の買収資金等にあてると言ったうえ、平運輸の手形では信用不足のため融資を得られないことを理由に、ロッテ等から融資を受けるために使用すると説明して戊野味噌の手形を振出してくれるよう依頼した。戊野は、原告が乙野を信用しうる旨述べたこともあって、右乙野の言を大筋として信用し、同年七月二〇日ころ、戊野味噌振出の約束手形一八枚(いずれも額面一〇〇〇万円)を作成し、原告を通じて乙野に交付した。乙野は、その際原告の要求により、右約束手形一八枚を預ったが、乙野において使用するも決して戊野に迷惑損害をかけない旨の戊野宛の念書を作成し原告に交付した。
(一一) 一方原告は、同月末ころから、乙野より金員等を受領するようになり、その趣旨はともかくとして、昭和四九年八月までに、現金で一八〇二万円を受領した他、(一六)、(二二)記載のものを含め金額合計二五〇〇万円分の小切手を受け取った。
(一二) 同年八月初め、乙野が戊野に対し、戊野及び十郎ら戊野一族所有の不動産の価額鑑定を受けるよう勧め、戊野がこれに応じたので、乙野から依頼を受けた不動産鑑定士の中田二郎が同月三日から五日までいわき市平を訪れ、戊野及び十郎所有の山林等土地(以下「戊野土地」という。)を鑑定評価のため調査した。その際、戊野及び原告が右中田を案内し、戊野は右中田からの指示で右山林の立木の数量をメモに記載し、これを右中田に資料として提供した。右中田は同月一八日、乙野あてに戊野土地にかかる価額鑑定書である不動産調査報告書を作成し、これを乙野に交付した。右鑑定の費用五三万円は戊野の側では支払わず、乙野がそのころ支払い負担した。
(一三) 戊野は、同年八月、戊野の父亡戊野大次郎名義となっている土地について、融資の担保としやすいよう、自己への相続登記を経由しようと考え、右登記申請に必要な書類を準備したうえ、同月一九日、原告とともに佐藤喜代子司法書士事務所を訪れ、右戊野への相続登記手続を依頼し、同年九月六日右事務所から右登記済証を受領して、そのころこれを乙野に交付した。右登記関係費用三万四九六〇円は、乙野がそのころ原告を通じて支払い負担した。
(一四) 同年八月下旬ころ、前記川崎源一が、戊野の不動産を調査したうえ乙野に融資する目的で、現金三〇〇〇万円を携え、秘書の木屋邦吉を連れていわき市平を訪れた。乙野が同日同所に来なかったため、原告が川崎らの応対にあたり、前記佐藤司法書士事務所に案内したが、結局川崎らは融資の目的を達しないまま帰った。
(一五) 同年九月九日、戊野は、乙野から前記約束手形一八枚に追加して約束手形の提供を依頼されて、戊野味噌振出の約束手形七枚(いずれも額面一〇〇〇万円)を作成し、また戊野土地の担保提供の交渉及び一切の権限を乙野に委任する旨の同日付の委任状(戊野及び十郎作成名義のもの)を戊野十郎の署名以外は全文自筆をもって作成し、これらを原告を通じて乙野に交付した。乙野は、右交付の際、原告の要求により、右約束手形七通を預ったが、乙野において使用するも決して戊野に迷惑損害をかけない旨の戊野宛の念書を作成し、原告に交付した。
(一六) 戊野は、昭和四六年一〇月、猪狩の妻猪狩ヨシ子が経営する真砂不動産株式会社所有の建物にかかる火災保険等の保険料の支払にあてるため、平運輸振出、戊野保証、満期昭和四七年四月一八日、金額一三〇〇万円の約束手形一通を右保険会社である千代田火災海上保険株式会社の社員である安藤吉治に交付し、右安藤はこの手形を植田信用金庫に割引かせた。しかし、平運輸及び戊野とも右手形の決済資金がなかったため、戊野は、昭和四七年四月二一日、平運輸振出、戊野保証、満期同年六月一六日、金額一三〇〇万円の約束手形一通を右金庫に差入れることにより期限の猶予を得、右満期にも決済不能であったので、同年六月一五日、一旦平信用金庫から戊野自身が借主となって一三〇〇万円を借り入れてこれを植田信用金庫に支払って右約束手形を決済し、同月一七日、新たに平運輸振出、戊野保証、満期同年九月一四日、金額一三〇〇万円の約束手形を植田信用金庫に交付して一三〇〇万円を借り受け、これをもって平信用金庫に対する右借入金の返済をした。戊野は、平運輸振出、自己保証の右約束手形の満期が切迫してその決済資金に窮したため、原告を通じて乙野に金策を頼み込み、その結果同月一四日同人から第一勧業銀行今里支店長振出の一二〇〇万円の小切手を原告を通じて借り受けた。戊野は、これを実質的な担保として平信用金庫から三〇〇〇万円を借り入れ、右借入金及び小切手金を右手形決済等平運輸及び自分の用に使用したが、その後乙野に対して右小切手金を返済しなかった。
(一七) 乙野は、川崎と融資交渉を続ける中、同年八月二六日ころ、川崎から一〇〇〇万円を借り入れたが、同年一〇月下旬ころ、結局、川崎からその余の融資を断わられ、同人から、預けておいた戊野の約束手形、登記済証、委任状等の返還を受けた。
(一八) 戊野は、同年一〇月三一日、戊野味噌の商号を戊野商事株式会社(以下「戊野商事」という。)と変更し、その目的も、従前の味噌の醸造販売等のほかに、「損害保険代理店並びに他会社の営む事業の総代理店業」と「他会社の営む事業並びに資産負債の整理、受託に関する事項」を追加し、同年一一月一七日その旨登記を経由した。
(一九) 戊野は、乙野からの要求に応じて、昭和四八年二月二日ころ、担保提供方委任した戊野物件について、銀行その他に担保を設定したり、山林の立木を伐採しない旨の誓約書を発行し、さらに、同年三月初めころには、戊野味噌振出の白地手形五枚を原告を通じて乙野に交付した。
(二〇) ところで、乙野は、浜土地の前記光潤社からの買戻期限経過後も、右買戻し交渉を続けるかたわら右資金の融資先を探していたが、同年二月ころ、大阪の第一物産株式会社社長山本清一の紹介でロッテやそのグループに属さず、特に関係のない神戸の金融プローカー大東健治(以下「大東」という。)を知り、そのころ、同人に対して、戊野土地を担保に融資を申込んだ。他方、乙野は、右光潤社との交渉の結果、同年三月初旬、同月のロッテの決算期までの期限で一億五〇〇〇万円を支払えば買戻しさせる旨の約束を取り付けた。そこで、乙野は、同月一三日ころ、右山本清一から、近々大東から融資が受けられるので、これをもって決済するという約束で、右山本清一振出の金額一億五〇〇〇万円の先日付小切手(振出日同月二五日)の交付を受け、同月二三日これを右光潤社に交付して浜土地の買戻し代金に充てた。
(二一) 同年三月二七日、乙野は、さきに原告を通じて戊野から入手していた戊野味噌振出の白地手形、戊野四郎、同十郎各名義の登記済証、担保提供委任状、印鑑証明書、誓約書、不動産調査報告書等(以下「登記関係書類等」という。)を持参して大阪市内の山陽株式会社代表取締役山本慎一の事務所内に大東を訪れ、同所でこれら書類を提示したうえ戊野土地を担保に供する約束で、大東から二億五〇〇〇万円を借り受け、支払方法として、右白地手形に金額を二億五〇〇〇万円、満期を同年五月二七日等と補充した約束手形一通を大東に裏書交付した。但し、乙野は右借用金のうちから二五〇〇万円を一月あたり五分二か月分の利息として天引され、残りを一億五〇〇〇万円、七二五〇万円、二五〇万円の小切手三通をもって受け取った。乙野は、うち一億五〇〇〇万円の小切手を当日山本清一に交付し、同人をして、前記同人振出の一億五〇〇〇万円の小切手決済のため送金させたものの、右二五〇万円の小切手は、登記手続費用として司法書士岡本正治に交付し、七二五〇万円の小切手は、銀行で換金し、その中から大東に手数料一二五〇万円、山本清一に手数料七五〇万円、その他関与した者に手数料、礼金として約五〇〇万円を各与え、残った金員も、山本清一及び大東に頼まれ、大東に九八〇万円、山本清一に約三〇〇〇万円を貸渡し、残余は自ら取得した。その際大東からは、後記大東農場大東健治振出の小切手及び約束手形二通を右貸金の弁済のために交付を受けた。
(二二) 同月三〇日ころ、原告は、乙野宅を訪れ、乙野から、右大東農場大東健治振出の金額五〇〇万円の小切手(振出日は一旦昭和四八年三月一五日と記入された後同年四月三日の先日付に変更されていたもの)を受け取った。原告が右小切手を同年三月三〇日銀行に取立委任し、同年四月三日呈示させたところ、資金不足により支払拒絶されたが、同月五日ころに至り決済された。
(二三) 同年四月一日、乙野、大東、山本清一及び岡本正治司法書士(以下「岡本」という。)が、右二億五〇〇〇万円の貸付に関し、戊野土地の調査及び担保権設定、同登記手続のためいわき市平を訪れた。同人らは、原告、戊野らの案内で担保となるべき山林等土地の一部を見分した後、大東、山本清一、岡本正治はいわき市四倉町の「柏屋旅館」に、乙野はいわき市内郷御廐町の原告宅にそれぞれ宿泊したが、同日夜、大東が、乙野に対し、担保設定の方式について、売渡担保とすべきことを要求したので、乙野は、戊野の承諾を得るべく、原告と連絡をとって、原告方で戊野と会った。乙野は、原告同席の場で、戊野に対し、大東から借り受けた二億五〇〇〇万円を既に自己の債務の返済等に費消してしまったことを秘し、かつ、大東に対する債務を期日に弁済して担保たる不動産を取戻す目当てもないのにこれがあるように装い、乙野は現在苦しいので、戊野物件を乙野のため譲渡担保として提供してもらいたい。譲渡担保は担保と同じである、金を借りれば猪狩さんの土地を私名義に出来るし、それをロッテに高く売れるので、担保物件は必ず取り戻せるなどとけん命に説得し、原告も戊野に対し、乙野に協力するよう話し、担保提供を勧めた。
(二四) 翌四月二日、戊野は、原告及び丁野とともに前記「柏屋旅館」を訪れ、同旅館の客室で、大東、山本清一及び岡本と会合し、その場で戊野土地のうち畑を除いた土地を大東に売渡し代金を領収した趣旨の昭和四八年三月二七日付戊野四郎(二通)、同十郎(二通)名義の不動産売渡証書計四通の各売主欄に自己及び十郎の署名押印し、戊野土地のうち畑につき、大東に対し、債務者乙野、極度額五億円、被担保債権手形貸付取引、証書貸付取引、手形債権、小切手債権とする同日付根抵当権設定契約(代物弁済予約付)証書一通の根抵当権設定者欄に自己の署名押印をし、更に岡本が読み上げた左記内容の念書が作成されるものとの前提で、当事者欄以外は空白の罫紙に債権者大東、債務者乙野が各署名押印したのと並べ、利害関係人戊野十郎、同戊野四郎の各署名押印をした。右岡本の読み上げた念書の内容は、乙野は大東より昭和四八年三月二七日二億五〇〇〇万円を借受け金員を受領した、これに基づき、大東は戊野四郎、同十郎所有の土地を所有者承諾のもとに所有権移転登記し、占有権、所有権を取得した。大東は、乙野が返済期日に借入金を完済したときより七日以内に右土地の所有権を戊野らに返還する、戊野らは、右借入金返済期日より二か月以内まで買戻請求を認められるが、以後大東が代物弁済として取得しても異議を申出ない、大東は右土地を借入金限度五億円以内で第三者に担保物件として差入れることができる旨のものであり、右念書は同年四月二日付とされた。なお、戊野は、当日、関係者に対し、乙野の借入金弁済期日から二か月以内は戊野土地の買戻しが認められるべきこと、右借入金の返済があれば戊野土地の所有権は戊野らに戻されることを念を押したうえ署名押印した。右調印後、岡本は、戊野土地中登記済証がない物件があったので、これに代わる保証書作成の必要があったため、予め保証人として佐藤武男及び佐々木貞子の氏名を記載し、右佐々木の押印を得ていた用紙を用意していた原告とともに、右佐藤の妻である前記佐藤喜代子司法書士事務所に保証書の作成依頼に行ったが、その際、右佐藤は、戊野を同事務所に呼び出し、右保証書によって、戊野土地の所有権が移転されることになることを説明し、戊野に念を押したうえ、その了解のもとに右保証書用紙に夫である佐藤武男の押印をし、これを岡本に交付した。
(二五) 同月一二日、福島地方法務局平支店から、右保証書による登記申請についての確認照会の葉書が、戊野及び十郎に対して届き、同月下旬ころ、右申請にまちがいない趣旨の戊野及び十郎名義の各回答書が右法務局に対して差し出された。戊野土地については、岡本の登記申請に基づき、大東を権利者とし、登記済証の存した戊野、同十郎物件にかかる所有権移転登記及び根抵当権設定仮登記、代物弁済予約原因の所有権移転請求権仮登記が同月二日に、保証書によった戊野、同十郎物件にかかる所有権移転登記が同月二五日に各なされた。
(二六) 乙野が大東に同年三月二七日借入時交付した戊野味噌振出二億五〇〇〇万円の約束手形は同年五月二七日の満期に決済不能であったため、乙野は、先に入手していた金額白地の戊野味噌振出の約束手形三通に金額合計二億五〇〇〇万円となるよう補充し、満期を同年七月二六日に補充して右二億五〇〇〇万円の約束手形と差替えたが、右差替後の約束手形三通が満期に取立てに廻され、戊野味噌において決済資金がなく、右手形は不渡りとなった。他方、乙野は、大東への二億五〇〇〇万円の借入金債務を返済期限までは勿論、同年七月二六日の戊野土地買戻期限後に至っても弁済しなかった。
同年七月下旬ころ、戊野は乙野の要求に応じ、戊野味噌の約束手形四枚を金額等白地のまま乙野に振出交付した。
(二七) 同年一二月七日、戊野は、大東、乙野、原告を戊野土地騙取を内容とする詐欺罪で告訴した。
(二八) 冒頭掲記の各証拠は、いずれも本件各公訴提起当時検察官が入手し又は容易に入手し得たものである。
3 右の事実経過によれば、戊野が戊野味噌振出の約束手形を乙野に交付し、さらに、戊野土地を乙野のために担保提供した際、少なくとも右約束手形及び戊野土地によって乙野が融資を得た場合の右融資金の使途について乙野に欺罔され、戊野土地の担保提供の際には乙野が既に大東からの融資金を自分のため費消していたことについても欺罔され、従って右約束手形交付及び戊野土地担保提供は乙野による詐欺罪によるものと当然考えられること、原告が右一連の経過のなかで戊野と乙野の仲介役を果たすなど深く関与し、結果的には乙野に協力した形になっていることは明らかであり、原告に詐欺の犯意および乙野との共謀が認められれば原告に詐欺罪が成立するものとみることができたものと言うべきである。
そこで、以下においては、原告の詐欺の犯意及び乙野との共謀の事実の有無を認定するうえで重要と考えられる事項について、起訴時に検察官が入手していた証拠資料及び適切な捜査を尽くせば入手し得たと考えられる証拠資料を基に個別に検討を加えることとする。
4 原告の動機及び利得について
(一) <証拠>によれば、原告は、昭和三五年ころから昭和四二年ころにかけ、戊野から計四五〇万円を借り受け、昭和四四年一一月、その残元本である計四二七万二一七八円について、公正証書を作成して弁済期を昭和四五年二月又は四月とし、利息日歩三銭、遅延損害金日歩五銭として支払を約しており、昭和四七、八年当時も右債務はほとんどそのまま残っていたこと、また昭和四六年八月一〇日株式会社七十七銀行平支店から三〇〇万円を元本の弁済期昭和四九年八月三一日の約定で借り受け、年九パーセントの利息の支払を月々続け、昭和四九年九月一〇日に元本三〇〇万円金額を支払ったこと、昭和四七年五月一九日保険業を通じての知人である安藤吉治から、二八〇万円を借り受け、同年中に五〇万円、昭和四八年中に利息も含め二七三万二三〇五円を支払い完済していること、昭和四六年中に自宅の移築、内装工事を発注施工し、同年中に右工事代金二五〇万円を支払ったこと、同年五月ころ自宅の造園工事を代金一五〇万円で発注施工し、昭和四八年一二月に再び造園工事を代金一七〇万円で発注施工し、右代金として、昭和四七年中に七〇万円、昭和四八年中に七五万円等二七五万円を支払ったが、残りは昭和五〇年当時未払であったこと、この他、実父が漁業を営んでいたところ、昭和四六年一月倒産したが、原告は右倒産以前に数回二〇〇万円程度、右倒産後の昭和四六年一二月ころ二〇〇万円、昭和四七年九月ころ一〇〇万円を実家に援助していること、これに対し、原告の第一生命から受ける昭和四七年中の給与総額(手取額、保険配当金を含み、税、社会保険料、社内保険料、組合費、原告が借りている社宅の家賃等を控除済みのもの)は、二六三万六六三二円、昭和四八年中の給与総額(手取額、右税、家賃等を控除済みのもの)は二九〇万五四五六円であったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はないが、原告がその他の相当額の金銭債務を負っていたものと認めうる証拠はなかったところ、右認定事実について、右原告の負債のうち造園費用等の大きな部分がその他の借金で返済されていると考えうるので、その収入に比べてそれほど過大な負債を負っていたものとも言えないうえ、戊野からの借金については、原告と戊野とはごく親しい間柄にあったこと及び借入以来の経過の長いことから特に返済を迫られていたわけではないとみられること、七十七銀行平支店からの借入についても返済期限が昭和四九年八月末であって、直ちに支払う必要がなかったこと、後述するように、原告は昭和四七年一一月から昭和四八年一二月にかけて丁野に対し一八〇〇万円を貸し付けていることなどに照らすと、本件各犯行の行なわれた昭和四七年七月から昭和四八年四月にかけて原告が経済的に窮迫した状態にあったものとは認められず、その他本件の動機となるべき事情は認められなかったと言うべきである。
(二) 前記2(一一)で認定したとおり、原告は、昭和四七年七月末から昭和四九年八月までの間に、乙野から現金一八〇二万円及び額面合計二五〇〇万円分の小切手を受け取ったものと認められる。この他、前掲乙第九号証の二によれば、乙野は右各現金小切手の他、昭和四六年二月初旬ころから昭和四七年七月までの間に、現金で三〇〇万円位原告にわたした旨供述していたことが認められるものの、右供述は、前掲乙第二二号証の二四中の原告供述に照らして措信し難かったものであり、乙野が原告に対し、右認定の各現金小切手の他金円をわたしたものとは認められなかったものである。
次に、右の小切手のうち、2(一六)で認定した、昭和四七年九月一四日、大阪空港で原告が乙野から受け取った一二〇〇万円の小切手は、前記認定のとおり、平運輸又は戊野のため原告が乙野から借り受け、直ちにこれを戊野に渡したものであって実質的に原告自身が利得したものと認めうる証拠はなかったのであり、また、<証拠>によれば、右原告が乙野から受け取った小切手のうち昭和四九年八月二二日に交付された三〇〇万、三〇〇万、二〇〇万の各小切手は、いずれも換金されず、特に三〇〇万円のもののうち一通は、同年一一月三〇日に至って金融機関に支払呈示されたものの、取引なしの理由で支払拒絶されたものと認められ右認定を覆すに足りる証拠はないから、これらの小切手により原告が利得しなかったことは明らかであったのみならず、<証拠>によれば、乙野は右小切手の交付は、昭和四九年八月二二日に、乙野から原告に対する同金額の貸付又は贈与としてしたものである旨供述していたことが認められるものの、右認定の小切手交付後の事実及び前掲乙第一〇号証の六に照らすと、貸付に供されたはずの小切手が換金されず、原告からはこのころ逆に乙野に対し八〇〇万円近くの金員が交付されていた事実も窺えたのであるから、右乙野の供述を直ちに信用することができず、右小切手の交付により原告が利得しようとしたものと認めることもできなかったものと言うべきである。
(三) 右各小切手分を差し引くと、原告が乙野から実質的に受領した金員の合計は、二三〇二万円となるが、前掲乙第二二号証の二三によれば、原告は、昭和五〇年二月二〇日、検察官に対し、右金員のうち一六〇〇万円余りは、原告が乙野に対して売り渡した骨とう品一〇数点の代金である旨弁解していたことが認められる。そして、原告は、本件公訴提起前において、原告の右弁解を裏付けるに足りる右骨とう品売買に関する多数の文書が押収されていて、これによれば原告の弁解が真実と認められたはずであると主張するので、この点につき検討を加える。
(1) 原告の主張にかかる骨とう品関係文書とは、原告作成名義の昭和四七年八月三一日付「証」(「記」と読むべき余地もある。)と題する書面(甲第一三号証の二)、乙野作成名義の昭和四八年一二月一九日付念書(同号証の三)、乙野作成名義の昭和四九年八月三一日付承諾書(同号証の四)、乙野及び乙野花子作成名義の各委任状(同号証の五、六)及び乙野作成名義の昭和四九年付金銭借用証書(同号証の七)を指すところ、<証拠>によれば、原告は昭和五〇年二月四日以来逮捕勾留の身柄拘束下にあったところ、昭和五〇年一一月二八日保釈許可により釈放されたこと、「証」と題する書面を除いた骨とう品関係文書は、原告が、右保釈後に、福島県いわき市内<住所省略>の自宅二階において発見し、これを弁護人を通じて刑事第一審昭和五〇年一二月一九日の第一三回公判において証拠申請し、同審昭和五一年四月八日の第一八回公判において取調べられたものであること、本件公訴提起前において、原告、乙野その他関係者から任意提供された物の中にも、原告の前記自宅、いわき市平字祢宜町所在の当時の原告居住の第一生命社宅、同所所在の第一生命東洋支部事務室及び乙野の自宅に対し、昭和五〇年一月一九日いっせいに行なわれた捜索によって押収された証拠物の中にも右骨とう品関係文書(「証」と題する書面を除く)又はその写しが含まれていなかったこと、原告及び乙野の各供述書中には右骨とう品関係文書(「証」と題する書面を除く)に関する記載が全くないことが認められ、これらの事実によれば、本件公訴提起以前には、捜査官側において「証」と題する書面を除き右骨とう品関係文書を入手していなかったものと推認され、右認定を覆すに足りる証拠はない。
(2) しかしながら<証拠>によれば、原告の主張する骨とう品に相当すると考えられる一見してかなりの値打ちがあると思われる黒檀のテーブル、イスセット、紫檀製の戸棚、黒檀製の屏風等の家具や美術品及び前記骨とう品関係文書が、本件公訴提起前の捜査当時原告の自宅に存在したこと、原告は、被告甲野の取調べに対し、右骨とう品及び骨とう品関係文書の存在、内容並びに乙野との売買の経緯を明確に供述していたこと、丁野も被告甲野の取調べに対し、右骨とう品の売買を肯定する旨の供述をしていたこと、被告甲野は、右骨とう品の売買の有無について乙野に聞き、否定的供述を得るや、他に何らの裏付捜査も行なうことなく原告や丁野の右供述を虚偽と判断したことが認められるのであって、これらの事実に、原告の骨とう品売買に関する弁解が、原告の犯意認定にあたって極めて重要な意味を持つことを考え合わせれば、検察官としては、右骨とう品及び骨とう品関係文書の存否を確かめるため、再度原告宅の捜索を行なうなど慎重な裏付け捜査を行なう義務があったものと言うべきであり、また、これを実施すれば、右骨とう品の存在を確認し、骨とう品関係文書を入手することもできたと言わなければならない。
(3) そして、右骨とう品関係文書中、念書には、乙野が原告より一三点の骨とう品を一六五〇万円で買取った旨の記載があり、承諾書中にも骨とう品が原告より乙野に譲渡された旨の記載があって、かつ、いずれにも乙野の記名印と実印が押捺されていたのであり、また<証拠>によれば、原告及び乙野に対し、右骨とう品及び「証」と題する書面を含めた関係文書について具体的な事情聴取を実施すれば、右各文書が真正な文書であり、かつ昭和四七年八月に原告から乙野に骨とう品が売却されたことを示す文書であるものと把握し得たと認められ、右認定を覆すに足りる証拠はないから、これに原告及び丁野の前記供述を合わせ考慮すれば、検察官が適切な捜査を尽しておれば、原告が乙野より受領した金員中一六五〇万円は骨とう品の売却代金であるとの見方を持ちえたのであって、右趣旨の原告の弁解を排斥することはできなかったはずである。
(四) 以上によれば、原告が乙野から対価なく実質的に受領したものと認めることのできた金員は、(二)の小切手二〇〇〇万円分、(三)の骨とう品代金一六五〇万円分を差引き、六五二万円となる。
しかし、<証拠>によれば、右六五二万円のうち五三〇万円については、原告が乙野に借用証を差し入れていること、原告は、自分とともに乙野に対し猪狩土地の売却交渉にあたっていた丁野に対し、主として乙野より入手した金員から、昭和四七年八月ころから同年一一月二七日までの間に四回に分けて五〇〇万円、昭和四八年一月ころから同年四月三〇日までの間に四回に分けて八〇〇万円、同年八月ころから同年一二月二〇日までの間に四回に分けて五〇〇万円の合計一八〇〇万円を貸与していること、丁野も乙野から昭和四六年一二月から昭和四八年四月までの間に計八七万円を借り受け又は受領していること、猪狩四郎、乙野とも原告らに対し、猪狩土地売却の折には相当多額の報酬を与えることを予定していたところ、丁野は、猪狩土地が売却できた場合その仲介経費、報酬をもらえることを予想し、これと乙野、原告からの借入金等入手金とを清算するつもりであったこと、原告自身、猪狩土地売却交渉のため相当の経費を支出しており、丁野同様自分の乙野からの借入金等入手金、自分の丁野に対する貸金につき、猪狩土地売却の仲介報酬による清算を予定していたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はないのであって、これによれば、原告は本件猪狩土地の売買をめぐる折衝に関して、右小切手金、骨とう品代金を除いた乙野からの入手金六五二万円と丁野への貸金一八〇〇万円を比較して、利益を得るどころかかえって損失を被ったものとみるべきであったのみならず、原告は乙野から入手した金員のうち対価を与えていないものについては、猪狩土地売却の際に仲介報酬等と清算するべきものと考えていたものと解するべきであり、これらを利得として取り切る意思であったと認めるのは無理であったと言わなければならない。
従って、原告に、実質的な利得があったものと認めることはできなかったと言うべきである。
5 猪狩土地の売却見込みについて
本件各公訴事実によれば、原告は、昭和四七年七月ないし昭和四八年四月当時猪狩土地の売却見込みがないにもかかわらず、乙野とともに、戊野に対し、乙野において猪狩土地をロッテに転売でき、その代金で提供を受ける約束手形や山林等を戻せると説明したうえ、乙野が一旦猪狩土地を買う資金の融資を受けるために必要であると申し向けて、戊野に手形あるいは山林等を提供させたとされている。この点、前記2(一〇)(二三)に述べたように、乙野が戊野に右のように説明し、原告もこれを勧めたものと認められるのであるから、右当時原告が猪狩土地の売却見込みがないことを知っていたとすれば、右売却見込み及びこれを前提とする約束手形及び山林等の取戻見込みについて戊野を欺罔する意思があったものと考えることができ、このことは本件各公訴事実に言う原告の詐欺の故意認定に直接つながるものである。その意味で原告が右当時猪狩土地の売却見込みを有していたかどうかは重要である。そこで、以下この点に関して検討する。
(一) 昭和四六年六月ころ、中山保雄がいわき市平に来た当時の原告の認識について
昭和四六年六月ころ、ロッテの顧問である中山保雄が猪狩土地の現地調査に来たことは、前記2(四)で認定したとおりであるが、前掲乙第一九号証の八によれば、その際の状況につき、乙野は、「中山は、原告のいる前で、地上権者の問題や、付近に常磐炭鉱の跡である穴が随分あることなどを理由に、ロッテで猪狩土地を買うことについて非常に消極的な発言をし、帰りの車中では自分に対し、平の土地は将来性がないからよした方がいいと言ったので、ロッテでは買わないと感じた。その夜原告に電話して、中山は消極的な話をしていたが、何とか話を戻すようにするから地主をつなぎとめておいてくれと頼んだ。原告はこのころ既にロッテに売れることは危ないと感づいていたはずだ。」旨、前掲乙第一九号証の一〇には、そのころから原告がロッテで買収する見込みは非常に薄いと感づいていたはずである旨供述していたことが認められる、しかし、前掲乙第二号証の四によれば、中山は、「昭和四六年五、六月ころ、平に来て、乙野、原告と一緒に猪狩土地を見たが、その場ではいい土地ですねと言っておいた。帰りの電車の中では、乙野に対し、五〇〇〇坪では広過ぎる、ロッテでは使いこなせないから無理だと言った。乙野はその後も買ってくれと言ってきたが、とりあわないでいたところ、その話は立ち消えになった。」と供述していたこと、前掲乙第二二号の六によれば、原告は、「昭和四六年六月末ころ、中山を猪狩土地に案内したが、その際中山から、仲々いい土地ですね、会社と相談して早急に返事をしますと言われた。」と供述していたことが認められる。右中山及び原告の供述に照らすと、中山が猪狩土地の現地調査に来た際、原告のいる前で、ロッテで猪狩土地を買収することについて消極的な発言をしたとか、原告がそのころロッテでは買収する見込みは薄いと感づいていたはずであるとの乙野の供述は措信し難いばかりでなく、右乙野、中山、原告の供述によれば、乙野が原告に対して、中山が帰った直後に、ロッテに買わせるよう努力する旨表明し、現にその後も中山に対してロッテで買収するよう働きかけていたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はないのであって、昭和四六年六月ころの中山の現地調査の際に原告が、猪狩土地のロッテへの売却見込みを失ったとは到底認められなかったものと言うべきである。
(二) 昭和四六年一二月二四日付買付書及び昭和四七年二月八日付土地売買契約書、同年四月二九日付延期証作成当時の原告の認識について
昭和四六年一二月二四日ころ、乙野がロッテ商事株式会社代表取締役名義の買付書を偽造して原告に交付し、その際原告に念書を差し入れさせたこと、昭和四七年二月八日、乙野、原告ら間で売主猪狩四郎代理者原告、買主乙野等とする猪狩土地の売買契約書が作成されたこと、同年四月二九日ころ、右売買の残代金の支払期日を延期する旨の延期証が作成されたことは前記2(七)、(八)で認定したとおりであり、右買付書はもちろん、右売買契約書及び延期証も猪狩土地を乙野が買受け、これをロッテへ転売することを前提として作成されたものと考えられるから、原告がこれらの書面を真正なものと信じていたとすれば、少なくとも右各書面が作成されたころまでは、原告において猪狩土地のロッテへの売却可能性を信じていたことになる。以下検討する。
前掲乙第一九号証の八によれば、乙野は、右買付書及び売買契約書について次のように供述していたことが認められる。
「昭和四六年一二月二四日、原告が丁野とともに自宅に来て、猪狩から委任状を返せと言って来たので会社(ロッテ)の買付書のようなものを出してくれないかと言うので、その場で原稿を書いて原告に見せ、了解を得たうえでタイプ屋に頼んで買付書を作った。そのころ原告は乙野がロッテの役員でも社員でもないとはっきりわかっていたはずだから、右買付書作成経過から、原告は、買付書がロッテの会社により作られたものでないことを薄々知っていたと思う。また、昭和四七年二月初めころ、原告から電話があり、猪狩から委任状をもらっているのだから、原告、乙野間で猪狩土地売買契約書を作ってはどうか、そうすれば転売し易いのではないかと持ちかけられた。そこで、同月八日、戊野、丁野立会のもとで売買契約書を作った。」
これに対し、<証拠>によれば、原告は、次のとおり乙野とは全く相反する供述をしていたことが認められる。
「乙野に対し、猪狩土地のロッテへの売買を早く決めてほしい旨お願いしていたところ、昭和四六年一二月二四日ころ、乙野から、電話があり、ロッテから直接原告宛の買付書が出たので取りに来て下さいとのことであったので、丁野と一緒に取りに行った。その際乙野から、原告個人宛の買付書は異例なので念書を書いて欲しいと言われ、念書に署名した。その後も売買の話が仲々進まないことについて乙野に交渉していたところ、昭和四七年二月一日ころ、乙野宅で、三回目の買付書を受け取ったが、その時に、乙野から、二月八日にロッテへ入れる前の乙野との売買契約を結ぶから来て欲しいと言われた。そこで、右同日戊野、丁野とともに乙野宅を訪ねたところ、すでにタイプした売買契約書が用意されていた。乙野は、長いこと心配かけたが、ロッテで買うことも本決まりになったしこれで安心したなどと話した。手付金が実際には支払われないのにその旨の記載があるなど不備な点はあったが、乙野に説得されて戊野、丁野とともに右売買契約書に署名した。右調印後、乙野はきょうはめでたい日だから乾盃しようと、金盃を取り出し、酒食をもって、原告、戊野、丁野を歓待した。とにかくその日は売買の話が決まったと思い喜んで帰った。その後、右売買契約書上の残代金支払期日が来ても支払いがないので、同年四月二九日、戊野、丁野と一緒に乙野宅に行き、問いつめたところ、乙野が、ロッテの社長が韓国に行っていて話合いができないから六月一五日まで延期して欲しいと言うので、乙野が用意していた延期証に戊野、丁野とともに署名した。六月中旬ころの右延期した期限の切れたころ乙野に催促すると、乙野は、今月中にはロッテとの売買が決まるような話をし、七月上旬ころ催促すると近いうちに必ずできますと言っていた。」
そこで、右の乙野と原告の供述のいずれが信用できるものであったかを検討するに、<証拠>によれば、丁野は、右買付書、念書、売買契約書及び延期証の各作成経過について、細部に至るまで原告の供述とほぼ同旨の供述をしていたこと、しかも、原告、丁野の右供述は、右各書面の内容とよく符合し自然であり、原告がこれら文書の真実性を信じていたことを窺わせるに足りるものであることが認められる。さらに、右買付書作成の際、原告に念書を差し入れさせた事実は、右買付書が乙野と原告の通謀に基づく虚偽文書であるならば、乙野において原告に右念書を差し入れさせる必要などないはずであることを考えると、原告ら供述の信用性を高め、乙野供述の信用性を疑わせるものであること、乙野供述は後記6(一)(2)イロのとおり全体として信用できないばかりではなく、右買付書に関しては、乙野がこれを偽造した張本人であり、その供述を軽々しく信用できないことを合わせ考えれば、乙野の前記供述は到底措信し難いものであったという他なく、右買付書等を真正なものと考え、ロッテへの猪狩土地の売却を信じていたという原告の供述を排斥することはできなかったと言うべきである。
そうすると、前記乙野供述にかかわらず、昭和四六年一二月から昭和四七年七月にかけての時点で、原告は、猪狩土地の乙野を通じてロッテへの売却可能性がないものと考えていたと認めることはできなかったのであり、かえって、前記買付書、土地売買契約書、延期証、原告供述その他証拠上、原告は当時、右売却が実現するものと思っていたものとみるべき余地は大きかったものと言わなければならない。
(三) その後、昭和四八年四月ころまでの原告の猪狩土地売却見込みにかかる認識について
(1) <証拠>によれば、乙野は、原告が、昭和四七年八月ころロッテに猪狩土地を売るという話が消えていたことをよく知っていた、昭和四八年三月当時猪狩土地をロッテに売る見込みがほとんどないことについて十分承知していたなどの供述をしていたことが認められる。
(2) しかし、右乙野供述を具体的に裏付け、昭和四七年八月ころから昭和四八年四月までに原告が右売却見込みのないことを承知していたことを窺わせる証拠は本件公訴提起当時においても他に特に存しなかったばかりではなく、<証拠>によれば、乙野は、昭和四七年秋から暮にかけ、ロッテ以外の会社の担当者を原告とともに猪狩土地に案内するなどして買入れを勧めていた旨、そのころ原告が乙野に対し、猪狩土地売却を進める話をしていた旨、乙野は、昭和四八年三月、原告とともにロッテの会社員らを連れて担保提供のため戊野土地を案内した後猪狩土地も案内し、右社員らに猪狩土地売却の話をもちかけた旨の、乙野自身猪狩土地売却交渉をやめていなかったことを窺わせ、かつ原告が売却見込みを失っていたと解するのと矛盾する供述をしていたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はないのであるから、前記乙野の、原告が猪狩土地売却見込みのないことを承知していた趣旨の供述の信用性には大いに疑問がある。
しかも、前掲乙第一五号証の一、三によれば、川崎は、昭和四七年八月下旬ころ、いわき市平に赴いた際、原告から、乙野は川崎から戊野土地等を担保に融資を受けた場合、右融資金を平駅裏の土地(猪狩土地)を買うために使う旨の話を聞いたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
さらに、(四)(2)に述べるとおり、本件公訴提起前にも、適切な証拠収集がなされておれば、原告が、昭和四八年一月ころ、佐藤光をして猪狩土地の借地権者に対し立退き交渉をさせたことを認めえたところ、右立退き交渉のあったことは、原告が猪狩土地売却見込みを有していたことを強く推測させる事実である。
(3) 右(2)に述べたところに照らせば、昭和四八年四月まで、原告が猪狩土地の売却見込みを有していたかどうかについて、(1)の乙野供述にかかわらず、本件公訴提起当時収集された証拠だけからでも、また適切な証拠収集がなされておればなおさら、原告が右売却見込みのないことを承知していたものと認めることにはならなかったはずである。
(四) 猪狩土地の売却可能面積、右土地に対する規制及び土地使用者の立退き問題について
(1) 被告らは、土地区画整理事業のため猪狩土地の売却可能面積が約三〇〇〇坪しかなく、これを原告が知り悉していた旨主張するが、<証拠>によれば、猪狩土地は、昭和四六年ないし昭和四八年当時登記簿上約四四四〇坪、実測では約四九〇〇坪あり、そのうちには昭和四二年五月八日弘信商事株式会社に譲渡担保契約を原因として所有権移転登記された土地登記簿上地積約一二七〇坪が含まれていたが、右土地は原告に売却委任当時猪狩名義に回復の見通しがあり実際昭和四八年三月五日譲渡担保契約解除により猪狩四郎名義に復帰していること、もっとも、右土地のうち約五〇〇坪は仮換地指定に伴ないいわき市の保留地とされ、猪狩所有地として他に売却することは不能であり、他の約三〇〇坪はいわき市の土地区画整理事業上公園道路予定地に指定され私的な利用は不可能であったこと、従って、宅地として売却可能の面積は約四一〇〇坪であったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はないところ、右事実によると、猪狩土地のうち宅地として売却可能の面積は約四一〇〇坪であり、相当の地積を確保したうえ、そもそも、宅地として利用可能の面積が予想を下回ったとしても、2(一)認定のとおり、猪狩からは代金総額につき条件を付されていなかったのであるから、現況面積に即して売却代金を決定すればよかったのであり、利用制限下にある面積が右認定の程度あることは原告が売却するにあたって何ら障害とはならなかったと言うべきである。従って、たとえ原告が右事情を知っていたとしても、そのことをもって原告が猪狩土地の売却見込のないことを知っていた根拠とすることはできない。
(2) さらに被告らは、原告において猪狩土地を転売する意図ないし見込みを有しておれば、借地権者らと立退きの交渉をして然るべきところ、そのような事実を窺わせる証拠はなかった旨主張する。が、前掲乙第二号証の二によれば、松崎博は、猪狩土地のうち約七〇〇坪を借地し、最大の借地権者である東北硝子株式会社の社長である右松崎博は、昭和四七、八年当時猪狩や原告から立退き交渉を受けたことはない旨供述していたものの、他方、昭和四八年一月ころ振興相互銀行平支店長佐藤光から、猪狩が土地を売却すると言っていることを理由に立退き交渉を受けた旨供述していたことが認められ、<証拠>によれば、刑事第一審における証言ながら、右佐藤光が、原告から東北硝子の立退交渉を依頼された旨供述していることが認められるのであるから、本件公訴提起前において、この点に関する原告の弁解を聴取し、右松崎供述の裏付け捜査を行なえば、原告が借地権者の立退きに努力していたことを認めうる証拠を入手しえたはずであり、そうすれば、立退き交渉に関し、原告がこれに関与せず、従って真に猪狩土地売却の意図を有しなかったなどという見方に到り得ず、むしろ原告が猪狩土地の売却見込みを信じていたことを裏付ける事実を認めることができたはずである。
(五) 以上によれば、起訴時の証拠関係に照らし、また、適切な証拠収集がなされておればなおさら、本件各公訴事実の当時原告が猪狩土地の売却見込みを失なっていたことを認めることはできなかったと言うべきである。
6 川崎源一及び大東健治からの融資金の使途にかかる原告の認識について
本件各公訴事実によれば、原告は、約束手形詐欺においては、戊野味噌の約束手形を担保に川崎から融資を受ける金員を、乙野とともに自己らの債務の弁済等に充てる意図であったのにこれを秘し、山林等詐欺においては、戊野の山林等を担保に供する約束で大東から借り受けた二億五〇〇〇万円を、乙野とともに既に自己らの負債返済等に費消してしまっていたのにこれを秘し、いずれの場合も、乙野とともに戊野に対して、戊野味噌の約束手形ないしは戊野土地を担保に借りた金員は、猪狩土地の買収資金に充てる旨欺いたとされているが、戊野が、融資金が右のように費消されてしまうことないし費消されてしまったことを知っていれば、当然戊野味噌の約束手形や戊野土地を担保として提供しなかったと考えられるから、右融資金の使途ないし費消についての欺罔は、本件詐欺罪の成否につき重要な要素をなすものである。この点、乙野が融資金の大半の使途が自分の浜土地買戻し資金又は借金返済資金にあるのに、これを秘し、戊野には猪狩土地買収資金等にあてる旨説明して約束手形又は土地担保を提供させたことは2(九)、(一〇)、(一五)、(二三)、(二四)に認定したとおりであるので、次に、右の点についての原告の故意及び乙野との共謀の事実の有無が問題となる。
(一) ところで、本件公訴提起当時収集されていた全証拠のうち、右の点についての直接証拠は、共犯者とされる乙野の供述をおいて他にないものと認められるので、まず、この点に関する乙野の供述について検討することとする。
(1) <証拠>によれば、乙野は右の点につき本件公訴提起前において次のとおり供述していたことが認められる。
「昭和四六年三月ころ、原告は週に平均一度位の割合で自宅に来ていたので、そこによく出入りするロッテの社員と自分との会話等から、このころ既に原告は自分がロッテの人間でないことを知っていたはずである。また、原告は、中山保雄が猪狩土地を見分に来た際の同人の言動からロッテへの売却見込みがほとんどなくなったことに気づいていた。にもかかわらず、原告は、それ以降も戊野に対して、繰り返し猪狩土地は必ずロッテに売れると嘘を言い続けていた。さらに、昭和四六年一〇、一一月ころ、原告は、平運輸の手形で金ができたら自分の方にも回してくれ、そのかわり戊野との間に立ってできるだけ乙野さんに有利なようにする。戊野には絶対じかに連絡をとらないで欲しいなどと言うようになった。このころ原告は、自宅の新築資金や、会社の金を流用した穴埋めに早急に三〇〇〇万円位の金が必要だと始終言っていた。このようなことから、原告は自分の味方であると考えるようになり、昭和四七年三月から同年五月ころにかけて、原告に対し、浜土地の買戻しのために一億円以上の金が必要であることや、ロッテに多額の負債があることなどを打ち明け、同年六月ころには、平運輸の手形をロッテ以外に流用してこれで出来た金を自分の方で使わせて欲しい旨頼んだ。そのころ、川崎源一から戊野味噌の約束手形や山林を担保に融資を受ける話が進んでおり、その経過はほとんど逐一原告に報告し、その間にも、原告に、自分は浜土地をロッテ(光潤社)から一億五〇〇〇万円で買戻さなければならないと話し、そのための相談をしていた。同年五月二六、七日ころ浜土地関係回答書、契約書を原告に見せ、戊野味噌の約束手形で融資を受けたらうち一部を浜土地の返済にあてたいという話もした。右のような事情から、原告は、川崎からの融資金を自分が浜土地買戻し資金や自分の債務の弁済等に充てるつもりであることを知っていたはずである。その後、原告の協力を得て戊野から約束手形を騙取した。
結局川崎からは融資を断わられたので、昭和四八年二月初めころ、大東健治に融資を申し込んだ。同月下旬ころ、原告に対し、大東から二億円借りたらそのうち一億五〇〇〇万円は浜土地買戻しのためロッテ(光潤社)に送金させてもらうと話した。同年三月一三日ころ自宅において、原告にそのころ山本清一から受け取った一億五〇〇〇万円の先日付小切手を見せ、「これで一時浜の土地を押えるが、満期が三月二五日なのでそれまでにどうしても一億五〇〇〇万円作ってロッテに支払わないと山本清一も浜土地買戻しも両方がつぶれて大変なことになる。だから大東から金を借りたら浜土地の方を助けると思って一億五〇〇〇万円使わせてくれ。」と頼んだ。原告はこれを了解したが、その代わり自分の方にも三〇〇〇万円位回して欲しいと言った。同年三月二七日、大東から二億五〇〇〇万円の融資を受けたが、自宅に帰ってからその晩又は翌日原告に電話をかけ、大東から二億五〇〇〇万円借りられ、うち一億五〇〇〇万円をロッテ(光潤社)に送金した旨、大東から融資を受けた金のうち、手元に残ったのは大東農場振出の額面五〇〇万円の小切手だけである旨の報告をし、同月三一日ころ、原告が自宅に来たので、大東農場振出の額面五〇〇万円の小切手を渡した。そして同年四月二日、大東からの融資金を費消してしまったことを秘して、原告とともに戊野を欺き、右大東からの融資金について山林等を担保提供させた。」
(2) そこで、以下には右乙野の供述の信用性を検討する。
イ 前記2(二)、(三)、(七)、(二一)で認定したとおり、戊野は、本件と同種の詐欺罪の前科を多数有していたこと、本件においても関係者に対して自分がロッテに対して信用のある大人物であるかのように装い、ロッテ社長名義の買付書を繰り返し偽造行使していること、<証拠>により、坪当り金額、手付金額、残代金額及び売主部分は乙野により変造されたものであり、その余の部分は<証拠>によれば、本件に関連して、乙野は、原告らとの間で作成した昭和四七年二月八日付猪狩土地の売買契約書の授受手付金額を一〇〇〇万円から五〇〇〇万円にするなど勝手に変造したうえ、昭和四八年五月三〇日ころ、これを大東に見せ、猪狩土地を買付け、手付金五〇〇〇万円を支払ったなどと虚偽の説明をし、まちがいなく期限に返済できるかのように告げて大東らを欺罔し、借入名下に七〇〇〇万円を騙取したことが認められ、これを覆すに足りる証拠はないこと、乙野の供述には具体的な事実関係につき変転が多いことなどからすると、乙野の供述は、全体として信用性が低いと考えられたものと言うべきである。
ロ のみならず、<証拠>によれば、乙野供述中には、随所に戊野を欺罔するについて、乙野自身よりも原告の方がより積極的かつ大きな役割を果たしたものと強調する箇所があることが認められるが、乙野が結局本件詐欺による利得のほとんどを自己のものとしていることに照らしこのような供述は著しく不自然であって、乙野が原告を共犯者に仕立て上げて自己の刑責を軽減させるためにあえて原告に不利な内容の供述をしている可能性を看取できたと言わなければならない。
ハ 従って、乙野の右供述を原告の犯意認定の根拠とするためには、右供述がそれ自体合理的で、かつ、関係各証拠によって認められる客観的事実とよく符合していることが少なくとも必要である。そこで、このような観点から乙野の供述を逐一検討することとする。
(3) 乙野は、原告を共犯として犯行に至ろうと考えるに至った契機について、前記のとおり、原告が昭和四六年三月ころ、既に乙野がロッテの人間でないことに気づいていたこと、中山保雄の来平を境に猪狩土地のロッテへの売却見込みがなくなったにもかかわらず、原告が戊野に対して必ずロッテに売れると嘘をついていたこと、昭和四六年一〇、一一月ころ、原告が、融資金の一部を回してもらうことを条件に、戊野と乙野の間に立って、乙野に有利に振舞う旨協力を申し出たこと、そのころ原告は三〇〇〇万円位の金が必要だと言っていたことなどから原告を自分の味方と考えるようになった旨供述していたが、原告が乙野をどうとらえていたかについては、前記2(四)で認定したとおり、原告、乙野、丁野の供述等関係各証拠により、原告は、昭和四六年七月ころまでに、戊野とともに、乙野からその家柄、経歴、職業等について真偽取り混ぜての自己紹介を受けて、同人をロッテと関係の深い大人物と誤信したことが認められたのであるから、仮に原告が、乙野をロッテ自体に属する人間でないと認識するに至ったとしても、これを原告が乙野による猪狩土地売却を疑っていた根拠とすることはできず、また、前記5(一)で述べたとおり、中山保雄の来平を境に原告が猪狩土地の売却見込みを失なったとは認められないばかりではなく、乙野自身がその後も原告、猪狩土地をロッテに買わせるようにする旨告げていたのであるから、その後原告が戊野に対して必ずロッテに売れると言明していたとしても、乙野がこれを故意に嘘をついていると受け止めたとは考えられない。さらに、本件全証拠によっても、原告が同年一〇月当時、会社の金を流用し、その穴埋めの必要に迫られていたという証拠はなく、前記4(一)で述べたとおり、原告が昭和四六年中に自宅の移築、改装、造園等の費用として支払義務を負っていたのは四〇〇万円以下にすぎず、その他の借金については特に多額の返済を迫られていたわけではなく、原告は昭和四七年七月以降乙野から金員を受け取るようになっているが、4(四)に述べたとおり原告は同年一一月から昭和四八年一二月にかけて丁野に対し、一八〇〇万円を貸し付けており、これは、原告が乙野から同年一二月ころまでに受領した金員にほぼ匹敵するものであったから、原告が昭和四六年一〇月ころ以降、昭和四八年中まで、緊急に多額の金員を必要とする状況になかったことは明らかであり、昭和四六年一〇、一一月ころ原告がとりあえず三〇〇〇万円位の金が必要だと始終言っていたとする乙野の供述は合理的根拠を欠き、その中でも原告が乙野に対し、自己が勤務先において多額の金員を流用していた旨打ち明けたなどと言うのは荒唐無稽であり、いずれも措信し難いものであったと言わなければならない。そうすると、昭和四六年一〇月ころ、原告が平運輸の手形で得られた融資金の一部をもらうことを条件に乙野に協力を申し出たとする乙野の供述も、原告がそのような申し出をする背景を欠くため、唐突で不自然なものというほかなく、乙野が原告を共犯者に仕立て上げるためにあえて虚偽の供述をした疑いの強いものと言わざるを得ない。
(4)イ 乙野は、原告に対し、昭和四七年三月から五月にかけて、自身のために多額の資金の必要のあることを打ち明け、同年六月には、融資金を自分の用途に使わせて欲しいと頼んだ旨供述していたが、右6(一)(3)で述べたとおり、乙野が原告を共犯者として犯行に至ろうと考えるに至った契機として述べるところが信用できないものである以上、右供述も直ちに措信し難いものと言わなければならないが、なお念のため、乙野がその契機として述べたところ以外に、乙野において原告に内心の意図を打ち明け、原告を共犯者とする客観的な必要性ないし背景が存在したか否かを検討することとする。
前記2(三)、(六)、(一八)の認定事実の他、<証拠>によれば、乙野は、既に昭和四六年一〇月ころ、戊野に対して、猪狩土地をロッテに売却するためには、一旦同土地を乙野名義に登記することが必要であり、その資金を得るのに使うと告げてこれを信じ込ませ、同人から平運輸振出の約束手形一〇枚を取得していること、そのころ、戊野は、乙野から、猪狩土地にロッテ会館を建設し、戊野にロッテの東北総代理店の権利を与えるという話を聞かされ、これに意欲を燃やすようになったこと、乙野は、平運輸の手形は信用がないので戊野の個人保証をつけた手形が必要であると言って、戊野から、昭和四七年一月初めころ、戊野が個人保証をした平運輸の手形三枚(額面合計四〇〇〇万円)を振出させていること、戊野はそのころ、乙野から、猪狩土地をロッテに高価転売したらその利益を分配すると言われて、これを期待し、一層乙野を信用するようになり、娘房子の大学入学の世話を乙野に頼んだりしていること、戊野は、本件各騙取行為の後戊野味噌振出の白地手形三枚(金額が補充されて額面二億五〇〇〇万円となったもの)が取立に回ってきた後の昭和四八年八月ころに至っても、戊野が手形を騙取されたのではないかと疑って取材に来た新聞記者に対し、被害にかかっていることを否定するなど、なお乙野を信用していたことが窺われること、以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。これらの事実によれば、乙野が原告に内心の意図を打ち明けたとする昭和四七年三月から六月ころにおいても、戊野が乙野を信頼していたことは明らかであり、しかも乙野は、このころすでに本件戊野味噌手形取得や戊野土地担保提供におけるのと同一の口実を用いて戊野から同人の個人保証のついた手形まで取得していたのであるから、このような状況の下で、乙野が戊野から戊野味噌振出の手形を騙取するのはそれほど困難ではなく、乙野がこれについて特段の原告の協力を必要としたとは言えず、この面からは、乙野において、原告を通じて戊野に知られる危険を犯してまで、融資金の使途につき内心の意図を打ち明けて原告を共犯としようとする必要性は認められなかったと言うべく、この他、右のような原告を共犯とする必要性ないし背景となる事情を認めるべき証拠は存しなかったものである。従って、この面からも原告を融資金の使途につき共犯とした旨の乙野供述は信用し難いものであった。
ロ 次に、被告らは、原告が戊野に対して、担保提供の前提ないし準備行為と目される戊野土地の鑑定、相続登記、委任状及び誓約書の作成などを勧め、さらに戊野に無断で戊野土地の登記済証を乙野に渡したとして、これを原告が乙野と共謀し、本件各詐欺の犯行を遂行していた根拠と主張するのでこの点につき検討を加える。
<証拠>によれば、戊野は、昭和四七年八月から昭和四八年二月ころにかけて、原告から、単に今後の取引に備えるため自己の財産額を把握した方がよい、乙野が金を出して戊野の財産を鑑定してもらってやると言っているなどと言われて戊野土地の資産証明を取得し、鑑定を行い、資金を銀行から借りたりする場合死者名義では都合悪いと言われ、亡父大次郎から自分への相続登記を行ない、また猪狩土地の売却話を進展させるため、信用を得るべくロッテに見せるだけであり、実際に担保提供書類としては使用しないと言われて戊野土地の担保提供に関する乙野宛の委任状や誓約書を作成したが、当時戊野土地を乙野のために担保提供する意思は全くなかった、また、戊野土地の登記済証は自分が知らないうちに原告が受け取って乙野に交付した旨供述していたことが認められる。
しかしながら、前記2(六)、(一〇)認定のとおり、当時、戊野は既に乙野から猪狩土地の買収資金(坪五万円としても二億円以上が必要)を得るためロッテから融資を受けるという話を聞かされていたのであるから、そのために、右必要資金額相応の担保物件を提供しなければならないであろうことは戊野においても当然に予想しうるところであった。また、前記2(一二)、(一三)、(一五)で認定したとおり、戊野は、昭和四七年八月三日からの戊野土地の鑑定評価のための不動産鑑定士の現地調査に立会い、同月一九日には戊野大次郎名義の土地について自分への相続登記を行ない、同年九月九日付で戊野土地(右相続登記を経由した土地を含む)の担保提供の交渉及び一切の権限を乙野に委任する旨の委任状を、昭和四八年二月二日ころ、右担保提供を確認するなどの趣旨の誓約書を各発行しているのであって、右の経過及び委任状、誓約書の記載内容によれば、これら一連の行為が戊野土地を実質的に担保提供するために行なわれたものであることは明らかであり、従って戊野も当然そのような認識を有していたものと考えられる。また、前記2(一二)、(一三)、(一六)に認定したとおり、戊野は、同年九月一四日、乙野から一二〇〇万円の小切手を受領しながら、その返済を全く行なっておらず、戊野土地の前記不動産鑑定費用五三万円及び相続登記手続手数料三万四九六〇円もすべて乙野に負担させているが、これは戊野が乙野のために戊野土地を実質的に担保提供することの見返りと解されるのであって、戊野が乙野のために戊野土地を担保提供する意思を有していたことを裏付けるものである。従って、戊野土地の鑑定や相続登記、委任状の作成等の一連の行為は、戊野が戊野土地を乙野に担保提供する意図の下に行なったものとみるべきであり、原告が、担保提供の意思のない戊野を欺いて右のような行為を行なわせたものとみるのは到底無理であるから、右一連の行為に関与した原告の行動をもって、原告が本件各詐欺の犯行をなす乙野の意図を知ってそのために行動していた証拠とすることはできない。
なお、原告が、戊野に無断で戊野土地の登記済証を乙野に渡したとの点については、<証拠>によれば、右登記済証にかかる相続登記手続を担当した佐藤喜代子司法書士の作成した右相続登記手続原票に、「第一生命坂本さん渡」という記載のあることが認められるものの、前掲乙第六号証の四によれば、佐藤喜代子は、原告と戊野の両名が、佐藤司法書士事務所に登記済証を受け取りに来たことを窺わせる供述をしていたことが認められ、右供述及び前記2(一三)認定のとおり、右相続登記費用は乙野が負担し原告を通じて支払われたことからすると、戊野が同道していたとしても費用支払者である原告に渡した旨記録されることも十分ありえたことと考えられること、及び<証拠>に照らすと、知らないうちに原告が右登記済証を受け取り、これを原告が勝手に乙野に交付したとする戊野の供述は措信し難く、かえって<証拠>により2(一三)のとおり認定しうるものである。
(5)イ 次に、乙野は、前記のとおり、大東からの融資金の使途について、原告に対し、大東との融資交渉が始まって間もないころから繰り返し、大東からの融資金のうち一億五〇〇〇万円を浜土地買戻しのために使わせて欲しいと頼み、現実に大東から融資を受けてそのうち一億五〇〇〇万円を浜土地買戻しのために費消した直後にも、その旨原告に報告したと供述していた。
しかし、右乙野供述については、(一)(3)、(4)で述べたのと同様、原告を共犯とする契機、必要性ないし背景を欠くのであって、信用性が低いものと言うべきである。
ロ 右大東からの融資に関連しては、原告が昭和四八年三月三〇日ころ、乙野から同人宅で、大東農場大東健治振出の額面五〇〇万円の小切手を受け取ったことは前記2(二二)で認定したとおりであり、右事実は、振出人が二億五〇〇〇万円の乙野への融資者大東であり、時期も近接していることから、原告が戊野の大東への担保提供をした「柏屋」旅館における契約前のそのころに大東から乙野への融資が実行されたことを知ったことを推測させる一つの資料となるかのようである。
この点、2(二二)に認定したところによれば、右小切手は振出日を昭和四八年四月三日とする先日付小切手であり、かつ大東から乙野に対し、二億五〇〇〇万円の融資金の一部として交付されたものではなく、乙野が大東になした貸付金の弁済のために交付されたものであるところ、<証拠>によれば、原告は、右小切手を受け取る際、乙野から、右小切手は乙野が大東農場へ金を貸したのでその返済にもらったとの説明を受けた、そのときはまだ大東から融資を受ける話は聞いていなかった旨供述していたのであるから、右認定事実及び供述に照らすと、右小切手の交付があったからといって直ちに、原告が当時大東から乙野への融資がなされ、右小切手が右融資金の一部と知ったのではないかと窺わせる証拠とすることはできない。
(6) 以上のとおり乙野の(一)(1)に記載した供述は、信用性が極めて低いうえ、これを裏付ける有力な証拠も存しなかったものと言うべきである。
(二) 次に、原告が融資金の使途ないし費消の事実を知るなど乙野と共謀していたことを否定すべき証拠が存したかどうかを検討する。
(1) <証拠>によれば、昭和四九年四月二一日、乙野方で、丁野が、原告、坂本徳太郎弁護士及び丁野と乙野との話合の模様を乙野に秘して録音したテープによれば、乙野がそのとき原告らに対し、真実は「柏屋」旅館での戊野から大東への担保提供書類作成前の昭和四八年三月二七日に大東から二億五〇〇〇万円の融資金を受け取っているのに、融資金を受け取った経緯について、「大東との(融資)交渉が始まった、そして平へ来たのが(昭和四八年)三月二九日であり、そして書類が出て、金が出たのが四月二日である」とし、右融資金を受け取ったのは、「柏屋」旅館で担保提供書類を作成した後の同年四月二日である旨虚偽の事実を説明していたこと、右録音テープは本件公訴提起前検察官が入手していたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。もし乙野が、その供述どおり原告と共犯関係にあり、右担保提供書類作成前の同年三月二七日に大東から金を受け取りこれを費消してしまったことを直ちに原告に報告していたとすれば、右事実を確定的に知っているはずの原告を前にして、右融資金受領時期についてあえて嘘をつくはずがないから、このことは、原告が右事実を知らなかったこと、即ち、原告に右事実を告げたとする乙野の供述が虚偽であることを端的に示すものと言わなければならない。
被告らは、右録音テープ中の乙野の右発言について、それが、融資の時期をことさらに問題とした質問に答えたものではないこと、右発言に続けて乙野が融資金のうち一億五〇〇〇万円を大阪からロッテの経理に電送した旨真実を述べていること、同テープのなかで、乙野は、戊野に金を返さなければならないと思っている旨述べており、責任回避の姿勢がないことなどを理由に、乙野の右発言は、融資の時期に関する意図的な嘘ではなく、単なる言い間違いにすぎないと主張するが、乙野の右発言の経緯をみると、四月二日に金が出た旨の右発言は、「大東との交渉が始まって、平へ来た、そして書類が出た」旨の発言に続けてなされており、右発言が、大東らがいわき市平に来て担保提供書類が作成された後のこととして明確に意識されたうえでなされたことは明らかであるから、右担保提供書類作成以前に大東から金を受け取っていた乙野がそのような言い間違いをするとは考えられず、右一連の発言は、乙野が自分に対する非難の矛先を鈍らせるためにあえて意識的に原告らに対し大東からの融資の経緯を偽ったものとみるのが相当である。
(2) 前記2(一)、(八)、(二四)認定のとおり、丁野は、猪狩土地売却につき、原告に買手側の人物として乙野を紹介し、その後も原告、戊野と乙野との間の猪狩土地売却、戊野土地担保提供の取引に関与していた者であり、<証拠>によれば、丁野は、右乙野を紹介して以降、昭和四八年四月二日「柏屋」旅館での戊野土地の大東への担保提供契約締結及びその後に至るまで、原告と乙野との交渉の場にほとんど常に立会い、この間原告、乙野間等で作成された書類にも保証人等として名を連ねるなど猪狩土地売却交渉、戊野味噌約束手形発行、戊野土地担保提供の経過に深く関与し、この間の事情をかなり詳しく知ったと思われる者であったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
そこで、原告が融資金の使途及び費消の事実を知っていたかどうかについて、丁野の供述にも相当の注意を払うべきところ、<証拠>によれば、丁野は、本件公訴提起前、昭和四七年七月ころの乙野と戊野、原告との間の戊野味噌の約束手形振出交渉に関し、右約束手形で乙野が融資を受け、右融資金で猪狩土地を買取る旨の乙野の話を信用した旨供述する一方、乙野が浜土地買戻しや自己の債務返済等のために右融資金を充てると言っていたかどうか、さらに原告がこのこと及び自分のためにも融資金を使いたいと言っていたかどうかについては全く供述せず、昭和四八年三、四月ころの経緯についても、乙野が、戊野土地を担保に大東から融資を受け、右融資金で猪狩土地を購入し、その代金で戊野土地を戊野らに戻すと説明していた旨供述する一方、右融資金を乙野が浜土地買戻しや自己の債務返済のために使用するとか原告が右融資金を使うとかの話があったかどうかについては全く供述せず、かえって、「柏屋」旅館での大東への担保提供書類作成前に乙野が既に大東から金を受け取っていたかどうか、原告がそれを知り又は原告も金を受け取っていたかどうか全く判らなかった、或は丁野は、右「柏屋」旅館での書類作成後これから融資が実行されるとばかり思っていた、或は丁野や原告は同年四月二日ころの調印を過ぎても金が出ないと言っていた、或は同月中旬又は下旬ころに、原告が、法務局からのはがきの回答書を早く出さないと大東から金が出ないと言っていたとの供述をしていたことが認められる。
右丁野の供述内容は、前記丁野の関与の深さをも考え合わせると、丁野が融資金の使途に関する乙野らの真意及び事前の費消の事実を単に知らなかったことを意味するだけではなく、乙野が原告にも融資金の使途にかかる自己の真意及び融資前の費消の事実を隠していたのではないかと疑わせるに足りるものであり、従って、この点に対する原告の故意及び乙野との共謀につき否定的な証拠と考えられる。
(3) <証拠>によれば、原告は、本件公訴提起前、乙野から戊野味噌の約束手形及び戊野土地の担保提供による融資金を乙野自身の浜土地買戻しや債務の返済の用に使うことは勿論、浜土地買戻し問題や他に多額の債務のあること自体も聞いていなかった旨、原告が融資金を自分にも使わせてもらいたいと言ったことはない旨、「柏屋」旅館での大東への担保提供書類作成前に大東からの融資金が出たことやこれを乙野が自分のために使ったことは聞いていないと一貫してはっきり供述していたことが認められる。
(三) 右(一)に検討した乙野供述等の評価に(二)の証拠関係を加えて検討すれば、本件公訴提起時において、原告が戊野味噌の約束手形及び戊野土地担保提供による融資金を乙野又は原告個人の用途に費消する故意を有し又は乙野と共謀していたとの事実を到底認定することはできなかったと言うべきである。
7 戊野味噌の約束手形又は戊野土地担保提供による融資及びその相手方に関する戊野の認識ないし意思及び原告の認識について
本件各公訴事実及び被告甲野作成の冒頭陳述書(<証拠>)によれば、原告は、約束手形詐欺においては、乙野が川崎源一に戊野味噌振出の約束手形を担保として提供し融資を受けるつもりであることを知りながら、乙野とともにロッテに右約束手形を見せ手形として提出し融資を受けると戊野を欺き、山林等詐欺においては、乙野がロッテと関係のない大東健治からすでに融資を受けていること及び大東に戊野土地を担保提供することを知りながら、乙野とともに大東がさもロッテと関係の深い人物であるかのように装ったうえ、ロッテに戊野土地を担保提供して融資を受けると戊野を欺き、いずれの場合も、戊野をしてその旨誤信させて右約束手形及び戊野土地を騙取したとされているので、戊野が、戊野味噌の約束手形及び戊野土地の担保提供につき肯認していたか、また、肯認していたとして右担保提供の相手方及び融資者についてどの程度許容していたのか、この点本件公訴提起当時の証拠関係からどのような認定をするべきであったかにつき検討を加える。
(一) 戊野味噌の約束手形振出交付時における戊野の認識ないし意思
(1) 戊野が、戊野味噌振出の約束手形を発行するにあたり、乙野から、ロッテ等より融資を受けるために使用すると言われたことは前記2(一〇)で認定したとおりである。また、<証拠>によれば、戊野は昭和四七年七月初旬から二〇日ころ、原告及び乙野から、乙野がロッテから融資を受けるため戊野味噌約束手形を振出して欲しい、右手形は見せ手形としてロッテに預けるが、ロッテでは他に回さないそうだから大丈夫だ、乙野は右融資金で猪狩土地を買い、これをロッテに売りつけ、その代金と差引して手形は戻されるというような話を聞かされた旨戊野は乙野に右手形をロッテ以外に回してもらっては困ると話した旨供述していたこと、このような話が出たことについては、本件公訴提起前、乙野、戊野、丁野、原告とも供述していたことが認められる。
右各供述によると、戊野は、戊野味噌約束手形を乙野に渡すについて、ロッテに預けること以外に使用を許容していなかったようである。
(2) しかし、右に掲げた各供述調書にみられる関係者の本件公訴提起前の供述自体仔細に検討してみると次のような点が指摘される。
まず、戊野は、(一)(1)に掲げた各証拠によれば、他の関係者である乙野、丁野、原告に先立ち取調べを受けていたところ、<証拠>によれば、昭和四七年七月、同年九月、昭和四八年三月、同年七月の四度にわたり振出した戊野味噌の約束手形のいずれについても、ロッテに預ける、見せ手形とする或はロッテに見せるだけとの趣旨で振出した旨ほぼ一貫して供述し、うち<証拠>では、これに加え、流通下に置かない趣旨であった旨及び右振出後にも、しばしば右各手形について、約束どおり流通下に置かれていないと思った旨供述している(もっとも、前掲乙第二一号証の六中には、流通下に置かないとのことばはなく、回さないとのことばが記載されているが、その中に、「融通する」とあったのを「回す」に訂正した箇所が三箇所見られ、これは、戊野の言う「流通することをしない」ということばを「融通することをしない」ととり違えた取調官が、そのことばの意図をはかりかねたため、「回す」ということばに変えさせたものと推測される。ちなみに、このときの取調官下浦勝は、戊野の取調べに初めてあたったとみられる。また、前掲乙第二一号証の七中には「流通下に置かない」と並べ「流用しない」と、似た語感のことばが使われている。)反面、戊野味噌の約束手形振出の目的については、当初は、乙野の猪狩土地購入資金に加え、乙野が各所に土地を買うための資金調達の方法として、及び戊野にも右手形による融資金の一部を貸してくれると期待したことにあった旨、或はロッテの東北総代理店にしてもらうためであったなど、戊野味噌の約束手形振出は乙野を大変信用したからだなどと供述していたが、後には乙野の猪狩土地購入資金調達にあったことを強調し、また右手形振出は原告の言うことを信用したからだと供述を変化させていることが認められる。
また<証拠>によれば、戊野は、昭和四七、八年に振出した多数の戊野味噌の約束手形について、昭和四八年ないし同五〇年当時未回収分があり、かつ中には金額白地で振出したものもあったため、どれだけの金額の手形金取立を受けるかわからない状況にあり、戊野土地の取戻しとともにその対策に苦悩し、昭和四八年一一月頃以降弁護士大谷久蔵らに右対策を依頼していたこと、右弁護士らは、その対策として民事上の対応策及び救済策を練るとともに、乙野らの刑事責任を追及することによって民事上有利な解決を導き出す方針を立て、昭和四八年一一月一五日、戊野味噌の約束手形振出、戊野土地の担保提供をいずれも詐欺によるものであり、速やかにこの捜査を行なうよう促す上申書をいわき中央警察署に提出し、次いで同年一二月七日同趣旨の告訴を被告訴人乙野、原告、大東として同署になしたこと、昭和四九年に入り、戊野、十郎は右弁護士らを代理人とし、大東らを被告として戊野土地の大東らへの登記の抹消登記手続等を求める訴を提起したが、他方同年、大東から戊野商事株式会社らを被告として戊野味噌の約束手形にかかる手形金一億七〇〇〇万円余りの請求訴訟を提起され、戊野は弁護士を立てて手形上の責任を争って応訴していたところ、これら訴訟が昭和五〇年当時も係争中であったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
次に、乙野は、<証拠>によれば、戊野味噌の約束手形の振出を受ける趣旨につき、戊野に伝えた内容については、当初はロッテに担保として入れるだけとしていたのに対し、後にはロッテに見せるだけと供述を変化させ、また、右約束手形振出は原告だけでなく戊野も金が必要だと言われて受けた旨、原告との間で戊野らに対し川崎のことを秘密にすると言うことについて事改めては話合っていなかった旨の供述もしていたことが認められる。
さらに、丁野は、<証拠>によれば、当初、戊野が乙野に戊野味噌の約束手形を振出交付するまでの交渉について具体的に供述せず、ただ、戊野は乙野に右手形を預けるとき、ロッテ以外に回さないようにということで、乙野もそれを約束していたことを知っていた旨供述しており、次に、昭和四七年五、六月ころ、戊野のいない場での話としては、単に、乙野が右手形は川崎のところで割引くと言い、原告が約束どおりロッテ以外に回してもらっては困ると言っていたのみを供述し、また戊野のいる場での話として、事情はよく判らないがと前置きしながら、原告が乙野に対し、当初手形をロッテ以外に回しては困ると言っていたようだが、最後には戊野に、ただ、「兄さんまちがいないでしょう。」と話した旨供述し、次いで、同じころ、戊野のいない場での話として、乙野が右手形を川崎に差入れて融資を受ける旨言ったのに対し、原告は初め約束どおりロッテ以外に使ってもらっては困ると言い、そのあと、それでは乙野を信用して頼む、と手形がロッテ以外に使われることを納得した旨供述し、さらに戊野のいない場では、乙野が川崎のところで右手形を割引けると言ったのに対し、原告は手形をロッテ以外に回してもらっては困るとは言わなかった旨、次いで戊野のいる場で、戊野に、右手形の振出を頼んだとき乙野がロッテ以外に手形を回さないと言ったのに、原告は兄さん大丈夫なんだなどと乙野に同調していた旨供述するに至ったこと、右手形振出時の乙野、原告、戊野間の交渉に立会った印象として、当初、右手形を川崎に割ってもらうことは約束違反だと思ったが、乙野のやることだからまちがいないだろう、金が出て猪狩土地を買ってもらえば済むことだと思いあまり気にもしなかった、次いで、乙野を信用して乙野に任せれば大丈夫だという気持ちがあったし、早く猪狩土地を売って儲けたいと思ったから、右手形の割引先につき、乙野が嘘を言っていると思いながら、大それたことをしているとは考えなかった、戊野が振出した手形は川崎のところへ行かなかったと思う旨、次いで、乙野と原告は、右手形の割引先につき、戊野に嘘を言っているとは思いはしたものの、戊野を騙すなどと言う大それたことをしていると言う考えはほとんどなかった旨、終始、右手形の割引先をロッテ以外とすることが戊野を騙すことになるとは考えなかった旨供述していたことが認められる。
原告は、<証拠>によれば、当初、右手形につき、昭和四七年七月ころ、乙野から、商売に使いたい、ロッテに見せたり他の土地交渉に見せ手形として使いたい旨、戊野は乙野に、見せ手形だけに使うとの確認をした旨、見せ手形とする趣旨であったことを供述する一方ロッテ以外に回さないとの趣旨について供述しないばかりか、むしろ否定的供述をしていたこと、その後も平運輸の手形についてではあるものの、川崎に割ってもらうことを戊野も聞いており、戊野はロッテ以外で割引いてもらっても良いと考えていた旨の供述をしていたこと、戊野味噌の約束手形についても、乙野が戊野に、川崎から平運輸の手形割引を断わられたから戊野の会社の手形を出してくれ、と言っていた旨、或は、戊野は、戊野味噌の約束手形もロッテから他に回されてもいいと思っていたのではないか、うち三〇〇〇万円分については、戊野もロッテ以外で使うことを了承するだろうと乙野に話した旨の供述をしていたことが認められる。
(3) 乙野が戊野宛に戊野味噌の約束手形を受領した際発行した念書、戊野がなした書類の作成交付、不動産鑑定、戊野味噌の商号等変更、右鑑定、戊野の相続登記にかかる乙野の費用負担、その他乙野との交渉等に関する事実概要は、2(六)、(一〇)、(一二)、(一三)、(一五)、(一六)、(一八)、(一九)、(二四)のとおりである。
(4) 右(3)に引用した各事実及び<証拠>によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
イ 乙野は、昭和四七年六月ころ、川崎に対し、戊野味噌の約束手形及び戊野土地の担保提供を条件に、約三億円を融資してくれるよう申し込み、川崎から前向きの返答を得たが、同時に、融資のために右約束手形や土地の担保提供に必要な書類を持参するよう要求された。
乙野は、右川崎からの要求を受け、これより前、猪狩土地購入資金や戊野への融資金に充てる金の融資を受けるためとして平運輸の約束手形を戊野から受け取っていたが、昭和四七年七月初めころ、右平運輸の約束手形を返す機会を利用し、戊野に対し、猪狩土地購入資金及び乙野が爾後手がける他の土地取引等商取引資金調達のため、戊野味噌の約束手形及び戊野土地を担保提供するよう頼んだ。その際、乙野は、右約束手形及び土地を担保に入れてロッテ又は他の金融機関等から融資を得てこれを右土地取引等資金に使用すること、右他からの融資金については、乙野が必ず返済し、担保に入れられた戊野味噌の約束手形が取立てられるなどにより戊野に迷惑がかからないようにすること、その見返りとして、猪狩土地をロッテが購入した場合ロッテ会館を建てるうえ、戊野をロッテの東北総代理店にすることを申出た。また、乙野は、戊野、原告らに対し、融資を得る先について、ロッテの他に、ロッテと取引があり銀行に顔がきくという川崎から、銀行並みの利息で借入れできると説明して川崎から融資を受けるべきことを告げた。これに対し、戊野は、乙野を厚く信用していたことから、猪狩土地の売却が実現に向かい、自己がロッテの東北総代理店になるべきことを期待し、乙野の申出及び説明を了解したうえ、乙野に対し、右約束手形及び戊野土地の担保提供を包括的原則的に承諾し、同月二〇日及び同年九月九日の戊野味噌の約束手形を振出すに至った。
ロ 戊野は、昭和四七年七月から同年九月にかけ、乙野から戊野土地の担保提供のための書類作成交付、鑑定をするよう促された。そこで、戊野は、一方では、同年八月ころ原告、丁野らとともに乙野との間で金融機関等への担保提供をする条件、期間を取決める契約案を練りながら、同年七月以降乙野の費用負担で戊野土地の鑑定、亡父大次郎名義の土地の自己への相続登記経由、戊野土地の担保提供委任状の作成、これら及び他の担保提供のための必要書類の乙野への交付をし、ロッテの東北総代理店となるのに備えるため戊野味噌の商号、目的変更を進めた。
ハ 乙野の川崎からの融資交渉は同年一〇月ころ挫折したが、乙野は代わりの融資元として大東を見付け、戊野は、乙野の依頼に応じ、前記包括的合意のもとに昭和四八年三月、戊野味噌の約束手形を金額白地のまま乙野に振出交付し、同年四月二日、乙野のため大東への戊野土地担保提供に至った。なお、同年七月には、戊野は、乙野に対し更に戊野味噌の約束手形を振出交付した。
ニ 戊野がイに述べたように了解していたことについて、乙野、原告、丁野とも、戊野と乙野との折衝を見聞きしていたことから知っており、その後昭和五〇年以降に至っても、戊野が戊野味噌の約束手形、戊野土地をロッテ以外に担保提供することを了解しているものとの認識を保持していた。
(5) 右(4)の認定によれば、(1)に掲げた各関係者の供述にかかわらず、戊野は、戊野味噌の約束手形の振出交付時、右約束手形が、その後担保提供するべき戊野土地とともに、ロッテに限らず他の川崎等の融資元に担保提供されるべきことを知らされてこれを予測し、右川崎への担保提供についても異議を有しなかったものとみるべきである。
(6) そこで、本件公訴提起当時の証拠関係に照らし、この点どのように把握するべきであったか検討する。
(2)に述べたとおり、本件各公訴事実にかかる捜査において、関係する乙野、戊野、原告、丁野の各取調べについては、戊野の取調べが先行してなされたところ、戊野は、右取調べ当時、振出した戊野味噌の約束手形に関し所持人から請求されるのをおそれてこれを防ぎ、また、戊野土地を取戻すため、弁護士らと対策を練っていたのであり、本件各公訴事実にかかる昭和四八年一二月七日の告訴自体、予想される右民事紛争を有利に解決するためになされたものであること、昭和四九年に入っては、現実に戊野から戊野土地の取戻しのための抹消登記手続訴訟を提起し、逆に大東から戊野商事株式会社らを被告として戊野味噌の約束手形にかかる多額の手形金請求訴訟を起こされていたこと、このような背景下にあって、本件公訴提起前の取調べ時の戊野の戊野味噌の約束手形振出にかかる供述は、見せ手形とか流通下に置かない趣旨であったと言う、手形振出人としての私法上の責任を否定するためにことさら使用したものと思われる、弁護士らとの入念な打ち合わせのあったことを窺わせる手形法関係の用語の使用を基軸とし、右手形振出につき自分が担保提供すること自体を含め事情を知らされず騙されたことを強調する内容の繰り返しであったことがまず指摘され、このような背景、戊野の供述内容からすると、捜査官としては、戊野が濃厚な利害関係を有する民事紛争の有利な解決をはかるため、虚偽の供述をしている可能性を考え、警戒して捜査にあたるべきであった。
また、特にこのような場合、民事上の利害関係を有するべき各関係者の供述よりも関係書類等の客観的証拠を重視するべきであった。本件公訴提起当時の証拠に照らし、戊野味噌の約束手形につき戊野が主張する見せ手形であるとか、流通下に置かないとの趣旨であったことを窺わせる書類は存在を認められなかったばかりか、かえって、前記(2)(一〇)、(一二)、(一三)、(一五)、(一八)、(一九)、(二四)、(二六)、後記(二)(3)のとおり、右手形振出の際乙野から徴収された戊野宛念書には単に、右約束手形を預ったが、乙野において使用するも決して戊野に迷惑損害をかけない旨記載されたのみで、ロッテ以外には回さないとか見せ手形であるとかの記載はなかったこと(被告らは、原告が右念書を戊野に見せなかった旨主張するが、戊野が右念書の内容を了知したかどうかはともかく、乙野が戊野宛に右念書を記載したこと自体に意味を認めるべきである。仮に乙野と原告が戊野を騙す共謀を有していたとしたら、かえって、ロッテ以外に回さないなどの文言を記載してこれを原告を通じて戊野に見せたものと思われる。)、その他右戊野味噌の約束手形振出と関連を有すると考えられる戊野土地の担保提供に関し昭和四七年九月から昭和四八年六月ころまでに戊野により作成発行された委任状、誓約書、売渡担保契約書にも、担保提供は実はロッテだけに対するものであるとか、見せるだけであることを窺わせる文言はなく、右各書類及びこの他戊野が乙野の費用でなした乙野土地の鑑定、相続登記も戊野の一般的な担保提供の意思を肯定させる資料であったうえ、戊野土地に関しては、昭和四八年四月、戊野はロッテと別個の大東に対し乙野のため譲渡担保等の担保に供することを認識のうえ担保提供をしていること、戊野は昭和四八年三月にも戊野味噌の金額白地の約束手形を発行しているが、これは右大東に対する担保提供と密接な関連あるものと考えられたこと、さらに戊野は、右大東への担保提供後もなお乙野に戊野味噌の約束手形を振出交付しているのであって、これら客観的な資料に照らすと、戊野の前記7(一)(1)の供述はにわかに措信し難いものであったと言わねばならない。
もっとも、前記7(一)(1)に述べたとおり、本件公訴提起当時、乙野、原告、丁野も、戊野の右供述に沿う供述をしていたのであるが、乙野も当初戊野味噌の約束手形は見せ手形と言わず、担保であったと言っていたこと、丁野は当初、丁野、原告の他戊野も同席の場で話合いの結果右手形振出の趣旨が決められたような内容の供述をしていたのに、後に戊野の知らない時に乙野と原告との裏交渉があったことを強調する内容に供述を変化させている一方、手形の割引先につき原告らの戊野に対する詐欺の意思を否定する供述をしていたこと、原告は当初右手形につきロッテ以外に回されないとの趣旨であったとは供述していなかったこと、前記7(一)(4)に述べたとおり乙野、原告、丁野の三名とも、昭和四九、五〇年の取調べ時も右手形がロッテ以外に回されることを戊野も了解していたものと認識していたこと、及び前記戊野の取調べが右三者の取調べに先行してなされたこと、ならびに<証拠>によれば、乙野、原告、丁野の前記戊野供述に沿う各供述は、被告甲野も含めた捜査官らが戊野の供述を警戒するどころかこれを大前提とし、右三名が、ロッテ以外に回さないかどうか、川崎に割引に出すかどうか、この点の戊野に対する欺罔につき、戊野の供述に否定的な供述もしていたにもかかわらず、右三名に対し、戊野の被害の民事上の回復に協力するよう要求するなどして戊野の右供述に沿う方向に強力に誘導し、前記供述に至らせたものであり、戊野の供述を警戒したうえ関係者に対し慎重な取調べがなされておれば、右三名の供述は異なり、戊野の認識ないし意思が、戊野味噌の約束手形をロッテ以外の川崎等に担保提供することを許容していた旨のものとなっていた可能性が大きいものと認めることができるのである。
そうすると、被告甲野も含めた捜査官らは、当時の証拠関係、背景に照らし、戊野供述の評価を誤ったうえ、誤った取調べ方法を取ったことにより、右三名の供述につき適切な証拠収集をせず、この結果右適切な証拠収集があれば当時の他の証拠と合わせ、戊野の戊野味噌約束手形振出交付時における認識ないし意思が、ロッテ以外の川崎等に回されないものであったとは認められず、右川崎らに担保提供することを許容していた可能性が大きいものと把握しえたにもかかわらず、ロッテに差入れるだけのものであったと誤って把握したものと言うべきである。
(二) 戊野土地の大東への担保提供時における戊野の認識ないし意思
(1) 戊野が、戊野土地の大東への担保提供時、大東をロッテと関係の深い人物と思い込み、戊野土地はロッテに担保提供されるものと誤信していたかどうか(付随的に戊野が承諾していた担保提供が戊野土地の譲渡担保を意味するかどうか)を検討する。
(2) <証拠>によれば、戊野は、本件公訴提起前、昭和四八年四月一日朝原告から、「ロッテの人が兄さんの山を見に来る」と言われたこと、同日大東らを担保となるべき戊野ら所有の山林に案内した際、乙野から「あれはロッテの人だ」と耳打ちされたこと、同月二日、前記「柏屋」旅館で大東と名刺の交換をしたところ、同人の名刺には「大阪城南信用組合理事長大東健治」と記載してあったこと及びその他同月一日ころの乙野及び原告の説明等から、大東をロッテの指定を受けた金融機関の代表者であると思い込み、戊野土地はロッテに担保提供されるもの、それも所有権移転を伴わない形態の担保であると誤信した旨供述していたことが認められる。また、前掲乙第一九号証の一二によれば、乙野は、初めて大東を戊野に紹介した際、戊野に対して、大東をロッテと関係の深い人物であると紹介した旨供述していたことが認められる。
(3) しかしながら、前記2(二四)で認定した事実に加え、<証拠>によれば、大東が戊野に渡した名刺には大東の氏名と住所しか記載されていなかったこと(大東が大阪城南信用組合と関係がないことは本件証拠上明らかであり、従って大東が同組合の理事長なる肩書付の名刺を所持するはずがなく、仮に大東がそのような名刺を使用したとすれば、大東が乙野と結託して戊野を欺いていたことになるが、そのような事実を窺わせる証拠が全く存在しないばかりか、前記2(三)で認定したところによれば、大東は、乙野から戊野の登記済証や委任状等を見せられて、戊野が乙野のためにその不動産を担保に供する意思があるものと信じ、確実な担保があるものと考えて、二億五〇〇〇万円もの金員を乙野に貸し付けたものと推認されるのであって、大東が乙野と結託していたなどということはおよそ考えられない。)、戊野は、「柏屋」旅館で大東らと会談した際、四通の不動産売渡証書の各売主の欄に自分及び戊野十郎の署名をしたが、右売主の欄の左横には、いずれも「買主大東健治殿」とタイプ文字が記載されていたこと、戊野土地の担保提供に関し、昭和四八年六月初めまでに乙野、戊野間で作成された戊野自身の署名押印のある昭和四八年四月八日付売渡担保契約書には、戊野が戊野土地を乙野に売渡担保として提供した旨、乙野が戊野土地を売渡担保として大東の名義に所有権移転して金員を借り受けた趣旨の記載があること、戊野の前記供述がなされた昭和五〇年二月ないし四月当時、戊野土地の所有権をめぐり、戊野が右土地の大東への売渡担保等担保提供を承知していたかどうかなどを争点とする民事訴訟が福島地方裁判所いわき支部に係属していたこと、以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。これらの事実、また、前記乙野供述については、前述のとおり、乙野と大東が結託していたとは考えられないのであるから、乙野が、ロッテと全く関係のない大東をロッテと関係の深い人物として戊野に紹介するものと考えられないから(もし、そのような紹介の仕方をすれば、二億五〇〇〇万円の貸主である大東に不信を抱かせることになる)、乙野の右供述は措信できないこと、及び前掲乙第二二号証の二四の原告供述に照らすと、前記戊野の供述は、客観的資料に合わず、不自然であって、当時係属していた自己の民事事件を有利にするため、あえて融資の相手方及び担保の形態について錯誤に陥っていた旨主張していたものと考えられ、到底信用できなかったものと言うべきであり、かえって前記2(一二)、(一三)、(一五)、(一九)、(二四)、及び7(二)(3)で認定した事実によると、戊野が、戊野土地につき、ロッテとは別個の大東に対し、譲渡担保等の担保に供することを認識のうえ右担保提供をしたことはたやすく認められたものと言うべきである。
(三) 戊野味噌約束手形の提供先についての原告の認識
この点につき被告らは、原告がロッテ以外の川崎から融資を受けることを知りながら、これを戊野に秘して、戊野に戊野味噌の約束手形を発行させようとしたことは、乙野、丁野及び川崎の供述によって明らかであると主張するのであるが、乙野の供述が全体として信用し難いものであることは前述のとおりである。そこで、次に丁野及び川崎の供述について検討する。
すなわち、<証拠>によれば、原告は、この点につき、
「昭和四七年七月下旬ころ、乙野から、戊野味噌の約束手形金額計一億八〇〇〇万円は全部会社(ロッテ)に預けたが、ロッテで一億五〇〇〇万円しかできないときは、三〇〇〇万円の融資を川崎に頼みたい、会社(ロッテ)で決定が遅れるような場合は、全部について川崎に融資を頼みたいとの話があった。この間乙野から、川崎について、元代議士の秘書で銀行関係にも顔がきき、ロッテの銀行関係の裏交渉をやっている人物であるという説明を受けた。ロッテ以外からの融資話については、ロッテから融資を受けられず、戊野から承諾を得れば手形を使ってもよい旨話した。同年八月下旬ころ、川崎が平に来たが、同人の話が乙野の話とくい違っていたので、その直後ころ丁野と一緒に乙野宅を尋ねて、説明を求めたところ、乙野からすでに川崎から融資を受ける話は断ったと言われた。」と供述していたことが認められる。つまり、原告の供述によると、原告が乙野から、川崎より戊野味噌の約束手形で融資を受けるという話を聞いたのは、第一回目の戊野味噌約束手形発行(昭和四七年七月二〇日)の後であり、しかもその話は第二回目の右手形発行(同年九月九日)以前に消滅したというのであるから、これによれば、原告は、川崎の話を聞いてはいても、各手形発行に際しては、それが川崎に提供されるとの認識はなかったということになる。そこで、原告が乙野から川崎の話を聞いた時期が問題となるところ、前掲乙第二〇号証の四ないし六によれば、丁野は、「昭和四七年七月上旬ころ、自分と原告と戊野で乙野の家へ行った際、乙野は、戊野に、手形をロッテに入れれば金が出るから、戊野の会社の手形を振り出してくれと頼み、原告も『兄さん、間違いないでしょう』などと言って乙野に同調した。その時点では、自分も原告も乙野が戊野の手形を川崎に割ってもらうつもりであることを乙野から聞いて知っていたので、乙野と原告は戊野に嘘をついていると思った。」と述べる一方、右の会談以前に川崎の話を乙野から聞いた状況については、「昭和四七年六月か七月初めころ、自分と原告が乙野の家に行ったとき、乙野が、『戊野さんからもらった手形は川崎のところで割引くことにした。川崎は元代議士の秘書で銀行に相当顔が利き、ロッテの子会社でも金融面で世話になっている人だ』と言い、これに対し原告が、『約束どおりロッテ以外に回してもらっては困る。約束どおりしてもらいたい』と主張した。しかし、乙野が、『絶対心配ない、金さえ出ればロッテでも川崎でも同じでしょう』と言うので、原告も乙野を信用して任せるということになった。自分としても、乙野は財産家で家柄もよい人であるから、乙野の言うとおりにすれば大丈夫だと思った。」と述べていたことが認められる。そして、丁野の右供述を仔細に検討すると、丁野は昭和四七年七月初め、乙野が戊野に戊野味噌の手形振出を依頼する以前に、乙野から川崎の話を聞いたとしながら、その際の状況については、乙野が、戊野からもらった手形は川崎のところで割ってもらうことにしたと言ったとか、これに対し原告が、約束どおりロッテ以外に回してもらっては困ると言ったとか、既に戊野からロッテ以外には回さないという約束で手形の振出交付を受けた後であることを前提とした内容の会話が原告乙野間でなされたとする供述をしている(因みに、前掲乙第二〇号証の二では、丁野は、はっきりと、第一回目の右手形発行後である昭和四七年九月初めころ乙野から、川崎の話を聞き、戊野から預った手形は川崎に頼んで割ってもらうと聞いたが、これを自分は約束違反だと思った旨供述していたこと、その際原告がどう言ったかについては供述していなかったことが認められる。)。また、前掲乙第二〇号証の四によれば、丁野は、結局戊野の手形は川崎のところへ行かなかったと思う旨供述している。このように右丁野の供述には看過し難い矛盾に含まれているのであるが、乙野において、戊野に手形の振出を依頼する前、つまり戊野味噌の約束手形が出されるかどうか判らない段階で、原告や丁野にまで専ら川崎に割引いてもらうことを打ち明けるのは不自然と考えられること、乙野から川崎の話を聞いた時期についての丁野の供述には変遷がみられるところ(当初は前掲乙第二〇号証の二において昭和四七年九月初めころと述べていたのが、前掲乙第二〇号証の四、五ではよく雨が降っていたとか小雨が降り蒸し暑かったので六月下旬か七月上旬の梅雨時であったと述べるようになった。)、当初の、昭和四七年九月初めころ乙野から川崎の話を聞いた状況についての丁野の供述は具体的かつ詳細で、自然であることなどを考え合わせると、丁野の右供述自体から考えても、丁野が原告とともに乙野から、確定的に右手形を川崎に割ってもらう旨の話を聞いたのは、戊野が戊野味噌の約束手形を発行した一回目である昭和四七年七月二〇日以後であることは勿論二回目の同年九月九日よりも後であることの可能性を否定できなかったのであり、しかも、右引用及び7(一)(2)引用の箇所に照らし、丁野供述の趣旨を探ると、原告が、昭和四七年六、七月ころに乙野との話で、乙野から川崎のことを聞かされたことがあったとしても、戊野味噌の約束手形につき確定的に川崎に回されるものと認識してこれを承知したとまで言い切ったものではなかったと解する余地があったものである。
次に、前掲乙第一五号証の一ないし三によれば、川崎は、同年八月下旬ころ、平を訪れ原告と融資のことで話をした際、原告が「戊野の土地や手形があなたの方に担保として回るそうですが、戊野もそのことを承知しています。」と言っていた旨供述していたことが認められる。しかしながら、右川崎供述は、<証拠>に照らすと、そのまま信用することはできず、原告が川崎に言った内容は、戊野味噌の約束手形や戊野土地の担保提供先は、ロッテであるが川崎にすることも戊野は承知している程度であったことも考えられたと言うべきである。
そうして、<証拠>に照らすと、他の乙野、丁野、川崎の供述にかかわらず、原告が戊野味噌の約束手形につき確定的に川崎に回されるものとの認識を有していたのではなく、右手形はロッテに差入れられるものであり、ロッテからの融資が断わられた場合川崎に回されるものと考えており、右川崎へ回される点についても、戊野の意思をさしおいてまで原告が乙野にこれを承諾してはいなかったものとみるべき可能性は大きかったと言わねばならない。
その他原告が本件戊野味噌の約束手形発行に際して、乙野が川崎から融資を受け、右手形を川崎に回すことを確定的に知り、そうでありながら戊野を欺いたことを認めるに足りる証拠はなかったものである。
8 以上の検討結果によれば、本件公訴提起当時に存在した証拠によっては、原告が本件各公訴事実による犯行当時猪狩土地の売却見込みを失っていたとの事実を認めることはできず、しかも当時の証拠及び適切な捜査により収集しえたと考えられる証拠に照らすと、原告には戊野を欺罔して利を図るべき動機が特に認められず、また不当な利得をしたものとも認められなかったこと及び当時存在した証拠を合わせても、原告において川崎ないし大東からの融資金を乙野とともに個人費消する意図ないし乙野が個人費消するものとの認識を有していたとの事実を認めることはできなかったのであるから、各公訴事実のように原告が当時戊野に乙野において猪狩土地買受資金を得させるため戊野味噌の約束手形及び戊野土地の担保提供をするよう、また猪狩土地売却の時にこれらが戻されると言ったからといって直ちに戊野を欺罔したものとは言えず、そのうえ、戊野味噌の約束手形振出交付については、適切な証拠評価及び収集をしておれば、戊野が右手形を単にロッテに見せ手形として置くとかロッテ以外に回さない認識ないし意思であったとは認められず、ロッテに限らず川崎に対し乙野の受けるべき融資のため担保提供される場合のあることを認識しかつ許容していたとみるべき可能性が大きいものと把握しえたのであって、この面で既に右手形の提供先について戊野に対する原告の欺罔を認められなかったはずであるばかりか、原告の側についても、当時、右手形が確定的に川崎に担保提供されるものと認識していたとまではみられなかったことや前記のとおり犯行の動機及び不当な利得が見当らないことなどを合わせ考慮すると、原告が戊野の意思をさしおいてまで右手形を川崎に回すのに助力したものとは認められなかったのであって、この面からも、原告が戊野を欺罔したものとはみられなかったはずであり、戊野土地の担保提供については、当時の証拠評価のみで、戊野自身これをロッテとは別個の大東に譲渡担保として提供されることを認識許容したものであり、この担保提供の相手方及び担保の形態につき、原告に戊野を欺罔したとみる余地はなかったものである。
以上要するに、本件公訴提起時、検察官は手元に存した証拠の評価を誤り、かつ事案の性質上当然なすべき適切な証拠収集をしなかったため、犯罪の嫌疑が十分とは認められず、従って有罪判決を得る合理的見込みがあるとは言えないにもかかわらず、公訴を提起するに至ったものであって、本件公訴提起は、約束手形詐欺、山林等詐欺のいずれについても違法であり、かつ検察官には過失があったものと言うべきである。
二本件公訴提起前後の原告に対する直接の違法行為の有無
1 請求原因3(二)(1)、(2)の事実については、原告本人尋問の結果中に、これに沿う供述があるものの、右供述は、<証拠>に照らしてたやすく信用することができず、他にこれらを認めるに足りる証拠はない。
2 <証拠>によれば、原告は、本件刑事第一審第一回公判期日である昭和五〇年四月一五日当日血圧が二〇四ないし一三〇と高く、頭痛もあったため、右公判に出廷できなかったこと、その夜当時原告が勾留されていたいわき中央警察署を被告甲野が訪れ原告と面談したことを認めることができるが、右公判にあたり被告甲野が原告に公判出廷を強要したとか被告甲野が当日原告を無理に連れ出させたとか右面談が原告の取調べを内容とするもので長時聞に及んだとか、その真の目的が原告に対する威圧ないしいやがらせにあったなどということを認めるに足りる証拠はない。
3 <証拠>によれば、原告は、昭和五〇年一一月二八日、保釈許可決定を受けて同日釈放されたこと、被告甲野は、右釈放直後原告を検察庁の自分の調べ室に来させ、約一時間にわたり原告を引きとめ保釈中の注意、戊野への弁償等について面談し、当時の原告の弁護人から電話で原告の早期解放を要求されてはじめて原告を帰宅させたこと、以上の事実が認められる。しかし、被告甲野が原告を引きとめておいた間に、原告に対して虚言を弄し、自白を強要したとの事実を認めるに足りる証拠はない。また、被告甲野がことさら原告の釈放を延引しようとしたものと認めるに足りる証拠はない。そうすると、右被告甲野の原告に対する面談等の行為は保釈直後の原告の解放を結果として遅延させるものであり、好ましくないことは明らかであるが、その行為の内容、時間等を照らし違法な行為とまでは言えないものである。
4 請求原因3(二)(4)ロの事実については、原告本人尋問の結果中にこれに沿う供述があるものの、右供述は、被告甲野本人尋問の結果に照らしてたやすく措信できず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
5 以上によれば、被告甲野が、原告に対し、請求原因3(二)記載の各違法行為をしたと言うことはできない。
三本件公訴追行の違法性の有無
原告は、被告甲野が本件刑事第一審追行中、各証人或は証人予定者らに対して威嚇的取調べ及び供述干渉を行ない、その公判供述を歪めて誤判(本件刑事第一審)を導く原因を作り出した旨主張するので以下この点につき判断する。
1 丁野に対する供述干渉について
(一) <証拠>によれば次の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
(1) 丁野は、本件詐欺事件の参考人として、警察官及び検察官から取調べを受け、本件公訴提起前においては、警察官(司法警察員)に対する供述調書(以下「員面調書」という。)七通、検察官に対する供述調書(以下「検面調書」という。)三通(昭和五〇年二月二日付、同月二二日付、同年四月一〇日付)を作成され、さらに起訴後にも、同年四月二六日付で、検察官に対する供述調書(取調官は被告甲野)が作成された。刑事第一審において、右供述調書のうち、同年四月一〇日付及び同年四月二六日付の検面調書が取調べ請求されたが、いずれも不同意とされたため、検察官の請求により、第九回公判(同年一〇月一六日)において丁野の証人尋問が実施され、さらに弁護人及び検察官の双方申請により、第二〇回公判(昭和五一年六月三日)において再度丁野の証人尋問が実施された。この間、右第九回公判の直前ころに三回位、第二〇回公判の直前にも昭和五一年五月二一日及び同年六月二日の二回にわたって各々長時間被告甲野により丁野の取調べが行なわれ、右各日付の各検面調書が作成された。
(2) 丁野供述の変遷
イ 昭和四八年四月二日の「柏屋」旅館における契約以前に、大東から融資金が出てそれを乙野が費消してしまったことを原告が知っていたか否かに関する丁野の供述
丁野は、山林等詐欺事件の公訴提起前においては、乙野が昭和四八年四月二日の「柏屋」旅館における契約以前に大東から金を受け取ったかどうかも、原告がそれを知っていたかどうかも当時全く判らなかったし、むしろ四月二日の右契約を過ぎても乙野も原告も「まだ金が出ない。」と言っていた旨供述していたが、右起訴後の昭和五〇年四月二六日付の検面調書では戊野を気の毒に思う気持ちから正直に話す気になった旨前置きしたうえ、一転して、昭和四八年三月中旬ころ、乙野宅の応接間で、乙野が原告に浜土地買戻しのために大東からの融資金を使わせてくれと頼み、原告がこれを承諾し、さらに大東から金が出たら自分にもいくらか使わせてくれと言ったのをその場に同席していて聞いた、同月末ころには、やはり乙野宅の応接間で乙野が原告に大東から金が出たのでロッテの方に使わせてもらった、戊野にぜひ担保に入れてもらわねばならない、大東が契約に来るからなどと話しているのを聞いた旨供述するに至った。そして、同年一〇月一六日の刑事第一審第九回公判では、被告甲野の質問に対し、右検面調書の内容とはほとんどそのまま同じ内容の証言をし、さらに、乙野、原告の話合の席に同席した理由については、原告の運転手として同席した旨証言した。ところが、同公判の後半弁護人からの質問に対しては、「柏屋」旅館で合ってから一か月は経っていない時、原告から誘われて乙野宅に金が出たか確かめに行ったところ、乙野からまだ金は出ていないと言われた、原告がこれを確かめに行ったのは、岡本司法書士から金が出たのを調印が過ぎてから聞いたので、金が出たのではないかと思ったからである旨当初の証言と矛盾する供述を行ない、その後この点に関して被告甲野から、乙野の家に行ったのは原告が大東から金が出たかどうかわからないと戊野をごまかすためだと感じなかったかと質問されたのに対しては、判らないと答え、矛盾した供述をしたまま同公判は終了した。ところが、昭和五一年五月二一日付及び同年六月二日付の各検面調書では、昭和四八年三月ころ乙野が原告に大東からの融資金を浜土地の買戻しのために使わせて欲しいと話した際の話の内容については、乙野が原告に対して、山本清一から一億五〇〇〇万円の先日付小切手を借りて浜の土地を押えてあると言った、昭和四八年三月二七日過ぎ又は同月二九日ころ、乙野が原告に大東から金が出たと話したが、その際の話の内容についても、その中から山本清一に貸してあるということだった、と山本清一に関する全く新たな供述をするようになり、「柏屋」旅館での契約後原告とともに金が出たかどうかを乙野宅に聞きに行ったことについても、それは大東から金が出たかどうかではなく、山本清一に貸した金が戻ったかどうかを確認しに行ったものであり、原告から、岡本司法書士の話では大東から金が出たようだから乙野の処へ行こうと誘われたことはあるが、原告は三月末に大東から金が出たことを乙野から聞いて判っているはずだから、原告の行動は自分をカモフラージュするためのものであったと思うと供述するに至った。そして、同年六月三日の刑事第一審第二〇回公判では、被告甲野の質問に対し、右の各検面調書の内容とほぼ同一内容の証言を行ない、前回(第九回)の証言を訂正した理由については単に記憶が変わった旨供述した。ただ、同公判で、丁野は、原告の質問に対しては、昭和四八年四月以降原告が丁野と乙野宅へ行ったとき、原告が乙野に、大東から金が出たかどうかも聞き、それに対し、乙野は全然出ていないと答えていた旨の供述もした。
さらに丁野は、刑事控訴審においては、その第一一回公判で、昭和四八年四月下旬原告に言われて担保の書類を整えたのに金が出ないのはおかしいということで乙野宅に聞きに行ったら、同人から手続が全部終わっていないから金はまだ出ていないといわれた旨刑事第一審第二〇回公判の証言に反する供述をし、次いで第一二回公判では、当初は昭和四八年四月以降になって原告から大東から乙野に金が出ているんじゃないかということを聞いた旨供述しながら、検察官から刑事第一審公判での丁野の証言内容等について聞かれ繰り返し質問されたのに対し、三月末に乙野宅へ行ったとき大東から金が出て浜土地に一億いくら使われたことを聞いた、同年四月二日以降に乙野宅へ行ったのは山本清一に融通した金のことではなかったと述べつつ、そのとき、刑事第一審で証言したように山本清一に金を出したというふうな話があった旨不承不承供述し、刑事控訴審、第一四回公判では、初め、原告及び弁護人からの質問に対し、同年六月ころ原告に、岡本司法書士から金が出ているんじゃないかと聞いたからと言われて大東から金が出たかどうかを原告とともに乙野に確かめに行ったところ、乙野は書類が不備でまだ出ていないと言っていたと供述が一旦元に戻ったが、同公判の後の方では、検察官の質問に対し、右同年六月ころ乙野宅へ金が出たか確かめに行ったと供述しながら、自分が大東から金が出たのを知ったのは昭和四九年初めと思うと供述する一方、乙野が昭和四八年三月末に既に大東から金が出たという話をしていたかのような供述も行なうなど矛盾に満ちた証言をした。
ロ 昭和四七年七月二〇日の約束手形騙取以前に、原告・乙野間において、川崎からの融資金を浜土地買戻し等のために費消する旨の共謀が存在したか否かに関する丁野の供述
本件公訴提起前から刑事第一審第九回公判までの丁野の供述中には、この点に関する供述は全くなく、むしろ丁野の昭和五〇年一月二九日付警面調書、同年二月二日付及び同月二二日付の各検面調書によれば、丁野は、原告とともに乙野宅で、乙野から戊野味噌の約束手形で川崎から融資を受けるつもりであることを打ち明けられたが、乙野がロッテに入れるのも川崎に割引いてもらうのも同じだというので、乙野に任せれば大丈夫だと思い、早く猪狩土地を売ってもうけたいと思ったから戊野を騙すなどという大それたことをしているという考えはなかった旨右手形提出の当時、融資金流用がなされることを知らなかったことを意味する供述をしていた。また刑事第一審第九回公判では、昭和四八年三月に乙野から、大東からの融資の話が出たとき初めて浜の名を聞いた旨供述していた。ところが、昭和五一年五月二一日付及び同年六月二日付検面調書では、昭和四七年五、六月ころ、或は同年五月末か六月初めころ、乙野宅で、乙野が原告に浜土地をロッテの子会社から買戻したいので、戊野の約束手形や物件を貸してもらって作った金を使わせてもらいたいと話をし、原告がこれを承知した旨応答していたのを耳にしたと供述し、このような供述をするに至った動機については、今までは自分に不利になると思って話さなかったが、自分は原告の運転手に近い立場で行動していただけなので全部話す気になったと説明した。そして、同年六月三日の刑事第一審二〇回公判では、浜土地の話を聞いた状況につき、右と全く同じ内容の証言を行なった。
(二) 以上要するに、昭和五〇年四月二六日付検面調書、同年一〇月一六日の刑事第一審第九回公判において、丁野は、本件公訴提起前にはむしろ否定的であった昭和四八年四月二日の「柏屋」旅館での契約前に乙野、原告らが大東から融資されるべき金を浜土地買戻しに使うかどうかの相談をしたかどうか、さらに右契約前既に融資金が出て乙野が原告に対しこれを浜土地買戻しのために使ったことを話していたかどうかについて丁野自身聞いていた旨、次いで、昭和五一年五月二一日付、同年六月二日付各検面調書、同年六月三日の刑事第一審第二〇回公判では、右供述に加え、山本清一に関する新たな供述をするとともに、昭和四七年五、六月ころ川崎からの融資金の使途につき、既に乙野が原告に対し浜土地買戻しのために使いたいと話したのを聞いた旨、刑事第一審の公判進行中において、丁野供述が、戊野味噌約束手形又は戊野土地を使って得るべき融資金の使途に関する原告の知情を肯定し、原告に不利になるよう大きな変化を遂げている。
(三) そこで、以下、右丁野供述の変化が被告甲野の供述干渉等によりもたらされたものかどうかの検討を進める。
(1) 先ず、右供述内容が丁野の真の認識に合致するかどうかが問題となるが、この点の丁野の認識は原告の認識と密接に関連するので、ここで、右両名の認識について検討する。
イ 丁野供述の変遷経過を追うと、丁野は、昭和五〇年四月二六日の検事調べ以降右供述をするまではむしろ右供述を否定する趣旨の供述をしていたこと、右供述の動機として丁野は、戊野を気の毒に思う気持ちから正直に話す気になったと述べるが、本件公訴提起前においても右公訴提起後の取調べの段階においても戊野の窮状に変わりはないのであるから、右段階に至って初めて戊野を気の毒に思う気持ちから戊野のために正直に話す気になったというのはいかにも不自然であること、刑事第一審第九回公判において、丁野は、右原告の知情を肯定する証言をする一方で「柏屋」旅館での契約後に原告が大東から金が出たかどうかを乙野方に聞きに行った旨明らかに矛盾した供述をしていること、同公判では浜土地買戻しのことを聞いたのは昭和四八年三月が初めてである旨供述していたのに、昭和五一年の検面調書、公判ではこれをも覆す供述をしていること、刑事控訴審において、丁野は、検察官から繰り返し質問されてしぶしぶ右供述に沿う証言をした部分を除き、大筋では「柏屋」旅館での契約前に金が出ていたことを丁野が聞いていたかどうかにつきこれを否定する、右供述と反対の趣旨の証言をしていることを指摘できる。
ロ <証拠>によれば、昭和四九年四月二一日、坂本徳太郎弁護士、乙野、原告、丁野間の会話で、原告及び丁野は、「柏屋」旅館での契約後も、大東からの融資金が出たことを知らなかったことを理由に、当日乙野に右融資金がいつ出たか、何に使ったかを聞いたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
ハ 前記一7(二)(4)に認定したとおり、原告、丁野らは、戊野とともに、昭和四七年八月ころ、乙野が、過去の負債返済等ではなく、爾後の土地取引等資金を銀行等から借り入れるため、戊野味噌の約束手形及び戊野土地を担保提供する前提で、戊野土地を担保提供するための条件を取り決める契約案を練っていた事実がある。
ニ 前記(二)(2)イ認定の刑事第一審第九回公判及び控訴審における丁野供述、<証拠>の原告及び丁野が、昭和四八年四月二日の後の同月、乙野宅に、具体的な話の内容はともかくとして、大東からの融資金に関する話をしに来た旨の丁野供述によれば、原告は、丁野とともに、昭和四八年四月下旬ころ、大東からの融資金が出たかどうかを乙野宅へ聞きに行ったこと、その際乙野が、金はまだ出ていないと言っていたことが認められる。
もっとも、<証拠>の乙野供述は、原告が、乙野に対し、予め大東からの融資金につき乙野が原告に渡すことを約束していた山本清一に預けてある金二五〇〇万円を請求に来たとの内容を含むものであるが、これは、原告が詐欺の共犯であることを強調するものであるところ、一6(一)(2)イに述べたとおり乙野供述の信用性が低いことから考え、右認定を左右するものとは言えない。
また、前記認定の昭和五一年五月二一日付及び同年六月二日付の検面調書にある「柏屋」旅館での契約後原告とともに乙野宅に金が出たかどうかを聞きに行ったが、それは大東から金が出たかどうかではなく、山本清一に貸した金が戻ったかどうかを確認しに行ったものである旨の丁野の供述を検討する。
丁野は前記のとおり、刑事第一審第九回公判において、「柏屋」旅館での契約後一か月経たないうちに原告から誘われて乙野方に金が出たか確かめに行った旨証言しているが、それが大東から金が出たかどうかを確認に行ったとする趣旨の発言であることは、同公判において専ら大東から乙野への金の流れが問題とされていること、検察官も同公判において、丁野の右証言を大東から金が出たかどうかについての証言ととらえてそれを前提とした質問をしていることから明らかである。ところが、<証拠>によれば、丁野は右昭和五一年五月二一日付及び同年六月二日付の検面調査において、それまで一度も述べたことのない山本清一なる人物を登場させ、昭和四八年三月ころ、乙野が山本清一から金額一億五〇〇〇万円の小切手を借りて浜土地を押えていると原告に言っていたとか、乙野が原告から金を要求された際、大東から出た金のうち山本清一に貸してある分が近々取れると答えたとか、原告と乙野宅に金が出たかを聞きに行った際乙野が山本清一に預けた金が返って来ない、詐欺にかかってしまったと言っていたなどと述べたうえ、金が出たとか戻ったとかの確認に乙野宅へ行ったことがあると前回(直接には昭和五一年五月二一日取調べを指すが、その供述内容等から刑事第一審第九回公判をも指しての供述と解される。)話しましたが、これは山本清一さんに貸した金が戻ったかどうかの確認に行ったということであるのでこの点はっきりしておきたいと思いますと供述するに至ったことが認められる。しかし、右第九回公判での発言の趣旨が、右丁野が検面調書で説明する趣旨に解する余地がないことは前述のとおりであるうえ、丁野が右各検面調書どおりの認識を有していたとすれば、本件公訴提起前の段階における取調べによってその旨の記憶を当然に呼び起こしていたものと考えられるところ、前記第九回公判に至ってもこれを想起せず、右各取調べに至って忽然とその旨の記憶を呼びさましたというのはいかにも不自然であり、その内容が右第九回公判における矛盾した証言を都合よく合理化する態のものであることを考え合わせると、丁野の右供述は被告甲野から押しつけられてしたものである疑いが濃いと言わざるを得ない。のみならず、丁野は前記のとおり、昭和五一年六月二日付の検面調書で、原告から岡本司法書士の話では大東から金が出たようだから乙野の処へ行こうと誘われたことがあるが、それは原告が自分をカモフラージュするために行なった行動であったと思う旨、原告の真の意図はともかく、丁野と原告が乙野宅に行った理由が大東から融資金が出たかどうか聞きに行くためであったことを裏付ける趣旨の供述をしている。
これらの諸点に照らすと、右各検面調書における丁野供述中、丁野が原告とともに乙野宅へ行ったのが大東から融資金が出たかどうかではなく山本清一に貸してある金が戻ったかどうかを聞きに行くためであったからであり、乙野宅で山本清一に関する話がなされたとする部分は措信し難い。
他にニ冒頭の認定を覆すに足りる証拠はない。
ホ 右イないしニに述べたところ及び<証拠>に照らせば、丁野及び原告は、本件公訴提起前及び刑事控訴審の供述どおり、「柏屋」旅館での契約前には、乙野が戊野味噌の約束手形や戊野土地を使って得る融資金を浜土地買戻しに使うことを乙野から聞いていないし知らなかったうえ、右浜土地関係文書を見たこともなかったもの、また大東からの融資金を「柏屋」旅館での契約前に乙野が取得しこれを費消したことも知らなかったものであったと認められ、これを左右するに足りる証拠はない。またニに述べたとおり、昭和四八年四月に丁野と原告が、乙野宅へ行ったのは大東からの融資金が出たかどうか聞くためであったが、その際乙野は右融資金はまだ出ていないと言っていたものである。従って、以上の事実が乙野の真の認識であったとみるべきである。
ヘ もっとも、<証拠>によれば、乙野は原告が右融資金の真の使途を知り、また大東からの融資金が「柏屋」旅館での契約前に出され、費消されていたことを知っていた旨繰り返し供述し、丁野についてもこれを知っていたことを示唆するような供述をしている。しかし、乙野供述が全体として信用し難く、特に右原告の知情についての供述が信用し難いことは、本件公訴提起前の証拠関係に限っては前記一6(一)(2)(3)に述べたところであり、右に掲げたうち本件公訴提起後の乙野供述についても、その供述内容にあたると、より一層変転が多く、顕著に質問者に迎合的であるほか同様の評価ができるのであって、右原告らの知情にかかる乙野供述はいずれも信用し難い。
次に、前述のとおり原告は昭和四八年三月三〇日ころ、乙野から大東農場大東健治振出の金額五〇〇万円の小切手を受け取り、これが決済されているのであるが、これをもって原告が大東からの融資金が出、右小切手はその一部であると知ったことを窺うことのできないことは、前記一6(一)(5)ロに述べたとおりである。
原告に乙野と共謀して戊野を騙すべき動機が存し又は利得が存するか或は原告が猪狩土地の売却見込みのないことを知っていたとすれば、原告は、右イないしニの事実ないし証拠関係にかかわらず、戊野、丁野らに知らせずに乙野の融資金使用にかかる事実関係を知りこれに協力した疑いが生じうる。
この点、原告の動機及び利得については、前記一4に述べたとおり、また、猪狩土地の売却見込みについての原告の認識については、前記一5に述べたとおり、本件公訴提起時に検察官が入手し又は入手しえた証拠によっては右動機及び利得とも認められず、昭和四八年四月まで原告が猪狩土地の売却見込みのないことを知っていたことを認めることはできなかったところ、その他本件全証拠に照らしても右判断が変わることはないと言うべきである。この他、前記ホの認定を左右するに足りる証拠はない。
(2) そこで、丁野が認識に反して何故前記のような供述をしたかを考える。
イ 右供述は、丁野自身詐欺罪の共犯に問われるべき内容のものであり、これが任意になされたものであるとすれば、丁野において原告を罪に陥し入れようと意図するなど強い動機が必要と考えざるを得ないが、本件全証拠によっても、そのような事実を窺わせる証拠はない。従って、丁野の右供述は、任意になされたものでない疑いがあると言わざるを得ない。
ロ そこで、ひるがえって、本件公訴提起後の取調べにあたっての被告甲野の態度を検討するに、一般的に検察官は、起訴後は起訴前と異なり、公訴事実につき有罪判決の獲得を目指す当事者の立場を有することから、起訴後の補充捜査、とりわけ取調べの際には真実発見に背馳し強引に有罪を得るために証拠固めする方向でなされる危険が懸念されるところ、被告甲野は、丁野以外の関係で、後述のとおり、原告の公判対策のために、乙野に対して起訴後刑事第一審公判終了直前までに実に二六回にわたって取調べを行ない、前掲乙第二三号証の一ないし五によれば、この間乙野は第二六、二七回公判において、それまでの公判では供述していなかったのに、昭和四八年四月、「柏屋」旅館での契約後原告と丁野が乙野宅に来たときの会話内容につき丁野の第二〇回公判供述におけるのと同趣旨の会話をした旨供述していることが認められること、後述するように検察官側の立証が一応終了した後に、弁護側の申請証人の多数について、さしたる理由もなく検察官側からも証人申請をしたうえ各公判証言の直前に検察庁に呼出して取調べ、うち幾人かについては長時間の取調べを行ない、かつ右取調べの間、自分が不都合と思う証言をしないよう示唆したり、自分の考えているとおりの供述を一方的に求め、自主的な供述をさせない態度を取ったことがあり、証言を終えた者についてではあるが、取調べを行なって、その際原告をことさら悪く印象づけようとしていることから、被告甲野が本件公訴提起後、公判準備又は補充捜査の域を越えた極めて異例の証人予定者等への接触を行ない、具体的な証言内容についても原告の有罪獲得に向け自分の思うようになるよう証人予定者等に働きかけを行なっていたものと見ることができ、このことは、丁野に対する取調べにあたっても、被告甲野が原告を有罪とする方向でその供述に一般的及び具体的に干渉する可能性を窺わせるものである。
ハ 丁野自身に対する被告甲野の働きかけについては、先ず、被告甲野は、前記(一)(1)に述べたとおり、本件公訴提起後丁野の刑事第一審における二回の公判証言の前に計六回、それも主として各公判に近接した時期に長時間の取調べを繰り返したことが認められる。
ニ 次に、証人丁野三郎の証言中には、昭和五〇年四月二六日の取調べの際、丁野は、乙野と原告の両名が既に起訴されていたことから、自分が起訴される可能性は少なくなったと感じていた旨、丁野は、「柏屋」旅館での契約前に大東から融資金が出たことや融資金の使途を知らず、右契約後乙野宅へ融資金が出たかどうか聞きに行った旨供述していたが、被告甲野から「(「柏屋」旅館での)契約前に金が出ていたことをお前が知らないはずがない。知っているのにいつまでも知らないというなら逮捕する。」と脅かされるなどで強く供述の変更を迫られて畏怖し、止むなく被告甲野の言うことを肯定し、その旨の調書を取られた旨、昭和五一年五月二一日ないしは同年六月二日の取調べの際、被告甲野から戊野の被害を強調し、これを回復するため融資金の使用についての原告の知情を肯定する供述を執拗に求められ、さらに否定的な答をすると「逮捕するぞ。」とか「話が合わなければ何度でも呼ばんといかん。」などと威迫され止むなく被告甲野が具体的に言うなりに肯定的な答をし、調書を作成され、さらに、六月二日の取調べの際には、丁野の証人調べはこれが最後で、もう呼ばれることはないと言われ同日付の検面調書どおりに翌日の公判で証言するよう指示されそれに従った旨の供述があり、前掲乙第三七号証の三中にも丁野は被告甲野から、本件各公訴提起後第一審公判で証言する前の取調べ時、逮捕するぞと言われた旨の刑事控訴審における丁野供述がある。
ホ さらに丁野の供述内容、その変遷について考える。
前記(一)(2)イロに述べたように、丁野の刑事第一審公判における証言中、原告の不利に大きく変化を遂げたものは、いずれも、本件公訴提起後各証言までに作成された丁野の検面調書の内容とほとんど同一の具体的内容を有するものであり、これ自体、被告甲野の積極的かつ具体的な誘導を窺わせるものである。
個々の供述に立ち入って検討すると、先ず、前記(三)(1)ニに述べたとおり、山本清一に関する供述が新たになされた経過は、被告甲野の押し付けを感じさせるものである。
次に、前記のとおり、丁野は昭和五一年六月二日付の検面調書において、原告から岡本司法書士の話では大東から金が出たようだから乙野の処へ行こうと誘われたことがあるが、それは原告が自分をカモフラージュするために行なった行動であったと思う旨供述しているが、右検面調書における供述によれば、それより前に丁野のいる前で乙野が原告に大東から金の出たことを話したというのであるから、今から原告が、大東から金が出ていないかの如く丁野をごまかすために大東から金が出たようだから乙野宅へ行こうなどと丁野に言うはずがなく、右供述自体極めて不自然なものと言うほかなく、被告甲野が、前記のとおり刑事第一審第九回公判で丁野に対し右と同旨の質問をしていることを考え合わせると、右丁野の供述は、被告甲野の強い示唆によるものであることが窺える。
さらに、昭和四七年六月ころ、乙野が原告に浜土地の買戻しのため戊野味噌の約束手形や戊野土地で作った金を使わせてもらいたいと頼んでいたとする丁野の供述は、昭和五一年五月二一日付の検面調書において初めてなされたものであるが、丁野はそれまではむしろ右供述を否定する趣旨の供述をしていたこと、右供述の動機として右調書において、丁野は、今までは自分に不利になると思って黙っていたが、自分は原告の運転手に近い立場で行動していたに過ぎないから全部正直に話す気になったと述べたが、前記一6(二)(2)に述べたとおり、丁野が単なる原告の運転手の立場になかったことは明白であり、右弁明はいかにも不自然であること、それにもかかわらず、<証拠>によれば、丁野の昭和五〇年四月二六日付、昭和五一年五月二一日付及び同年六月二日付各検面調書には、いずれにも丁野が単に原告の運転手の立場で行動していたに過ぎないことが繰り返し強調して記載されているうえ、刑事第一審第九回公判においても、被告甲野の質問に応じて丁野が運転手の立場で原告・乙野の話合いの席に同席した旨証言していることが認められるが、このように極めて不自然な(明らかに客観的証拠に反する)丁野の弁明を被告甲野があえて右各検面調書に記載させ、かつ公判においても同旨の供述を引き出しているのは、丁野に原告にとって不利な供述(それは丁野にとっても共犯者として訴追される危険を伴なう不利益な供述である)を強いるのと引きかえに丁野が共犯として起訴されるのを免れさせるため止むなく苦しい弁明を与えたものと考えられる。
(四) 以上(三)(1)に述べた丁野の真の認識に加え、(三)(2)イないしホに述べた、被告甲野の本件公訴提起後取調べにあたった一般的態度、丁野に対する取調べ実施状況、丁野の、被告甲野から取調べを受けた状況に関する供述、丁野供述の変遷経過等を総合すると、被告甲野は、本件公訴提起後、丁野が第一審公判で証言するまでの間、戊野味噌の約束手形及び戊野土地を使って得る融資金の使途や「柏屋」旅館での契約前既に大東からの融資金が出たかどうかに関し、原告が情を知り乙野と共謀しており、従って詐欺罪の共犯であるとの自分の見方に沿う丁野の供述を得ようと、丁野を度重ねかつ長時間取調べたうえ、一方では乙野、原告両名の公訴提起が完了し、丁野の起訴はなされない情勢になっており、丁野もこれを感じ取っているのに乗じ、丁野に起訴をされないための弁解の道を与えることにより、他方では自分の見方に沿わない供述をすれば逮捕すると威迫するなどして執拗に追求したうえ、自分の見方に沿う供述をすれば起訴されることはない旨伝えて、丁野から前記(一)(2)イロ、(二)記載の内容の、真の認識に反する原告に不利な供述を引き出し、公判でも証言させたのであり、被告甲野の右利益誘導及び威迫等による執拗な追求がなければ、丁野は、真の認識に反し、かつ丁野自身も詐欺罪の共犯に問われうる右供述、証言をしなかったものと認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
右説示によれば被告甲野の右行為は、公判準備又は補充捜査等として検察官に許された範囲方法を明らかに逸脱した違法な供述干渉であり、その際同被告に少なくとも過失のあったことは明らかである。
2 乙野に対する供述干渉について
(一) <証拠>によれば、次の事実が認められる。
(1) 原告にかかる刑事第一審第三回公判で、乙野の員面調書(八通)及び検面調書(九通)の取調べ請求がなされたが、いずれも不同意とされたため、検察官の請求により、第四回公判(昭和五〇年八月一日)及び第七回公判(同年九月四日)において乙野の証人尋問が実施された。さらに、第一四回公判(昭和五一年二月一六日)で弁護人が、第二〇回公判(同年六月三日)で検察官がそれぞれ乙野を証人申請し、右両者の請求により、第二五、二六回公判(同年九月一六日、同年一〇月五日)で乙野の証人尋問が実施され、さらに検察官の期日外同月一六日の請求により、第二七ないし二九回公判(同月一九日、同年一一月九日、同年一二月三日)で乙野の証人尋問が実施された。
(2) 乙野は原告に対する刑事第一審の公訴提起以来判決宣告までの間ずっと勾留されていたところ、被告甲野は、原告の公判対策のために、請求原因3(二)(2)中の「刑事第一審公判時における乙野二郎に対する取調べ一覧表」記載のうち昭和五一年一一月三〇日を除いた日時に乙野に対して事情聴取ないし取調べを行なった。
(3) 乙野の公判供述の変遷
イ 原告・乙野間の骨とう品売買についての乙野供述
この点、本件公訴提起前においては、原告の所有する古物(骨とう品)を買い入れる約束や契約をしていないし、骨とう品を全然見ていない、ただ昭和四九年九月ころ、原告が、乙野から借りた金は返せないから自分が持っている骨とう品を買ってもらうために渡した金ということにする、と一方的に言われた、と供述していた(昭和五〇年三月一八日付警面調書)。刑事第一審では、第二六回公判で、骨とう品関係文書中、金銭借用証書(甲第一三号証の七)、承諾書(同号証の四)、委任状(同号証の六)の成立を認めたものの、日付の早い念書(同号証の三)については自己の関与にかかる文書であることを否定し、見覚えがないと述べ、そのうちに妻の筆跡があるかどうかについてもよく似ていると述べるにとどまり、骨とう品の売買については、原告から買ってくれと言われたことはあると言いつつ、売買の事実自体は強く否定し、右承諾書等は、原告から金を借りているので原告が書けと言うとおり書いた旨、骨とう品やそれを撮した写真を見たことがない旨供述した。ところが、刑事控訴審では、先ず第一六回公判において、右念書が自分の作成にかかるものであり、その内容どおり骨とう品を原告から買った旨、その代金一六五〇万円をそれまでに何回となく小口で渡したが、それは検察官の冒頭陳述書において乙野が原告に渡したとされている金(四千数百万円)に含まれている旨、さらに「証」と題する書面(甲第一三号証の二)を示して質問された結果、右書面の日付である昭和四七年八月三一日ころ骨とう品を買った記憶がある旨供述した。また、同審第一八回公判において右念書を自分が作成し原告に渡した旨、右念書記載のいわゆる骨とう品のうちびょうぶ、戸棚を一回昭和四七年二、三月ころ原告宅で見た旨、骨とう品を原告から買った旨、ただ右「証」と題する書面については借用証と同じ意味であり、このころ骨とう品売買の話があったかどうか記憶していない或はなかった旨、さらに昭和四七年二、三月ころ原告から骨とう品を買ってくれとの話があった、当時はまだ代金額を決めていなかった旨供述し、同審第一九回公判では、原告から骨とう品の写真を見せられ、価格の話があり、昭和四七年八月ころ、原告からこれを差上げてもいいんだという話をされた旨、骨とう品を一回見せてもらった旨供述し、その後、骨とう品を譲ってもらったことはない旨、さらに、昭和四七年四、五月ころ以降二、三回原告から骨とう品を安く渡すと話されたがさほど本気に思っていなかった、昭和四九年八月以降原告から骨とう品はもうきみにあげたものだからと言われた旨供述した。
ロ 川崎からの融資金の使途に関する原告の知情、共謀についての乙野供述
この点に関する本件公訴提起前の供述内容は、一6(一)(1)に述べたとおりである。刑事第一審では、先ず第四回公判で、昭和四七年六、七月ころ又は五、六月ころ、又は同年八月以降浜土地に関する回答書(乙第一六号証の四)を見せて買戻ししたいことを話した旨供述し、第七回公判で、乙野は昭和四七年三月ころ戊野を騙す気になったが、そのころ原告も気付いたと思う、そのころ原告に、浜土地とロッテ関係で多額の金を必要なことを話した旨、浜土地関係の契約書(乙第一六号証の三)を同年五月下旬原告に見せた旨供述した。ところが、同審第二七回公判において、右回答書を同年三月中旬ころ原告に見せ、右土地買戻しのために金が要るので、戊野山林を他から融資を受けるため使わせてくれ、と言った、そのしばらく後乙野が右買戻しのため一億円要るからぜひ使わせてくれと話すと、原告は俺の三〇〇〇万円も一緒に作ってくれたらと話し、乙野がこれを承知すると、原告は山林ではなく戊野味噌の約束手形を振出させるようにする、或は俺に任せておけと、乙野の話に応じた、その後同じ話を数回し、七月にもした旨、右浜土地契約書を同年五月二六、七日ころ原告に見せ、買戻し期限につき説明した旨供述し、第二八回公判でも、昭和四七年三月中旬ころ、原告に右回答書を見せ、浜の物件で一億円要るので戊野物件を使わせてほしいと協力を頼むと原告は、それよりも戊野味噌の約束手形を振出してもらうようにしてやる、それを割引いて資金にしたらと言い、乙野はお願いしますと頼んだ旨供述した。刑事控訴審では、第一八回公判で、浜土地関係書類を原告に見せたかどうかはっきり記憶ない旨、川崎からの融資金を浜土地買戻しのために使いたいと話したようにも思うが記憶がはっきりしない旨、第一九回公判で、川崎からの融資金の使途について、原告に、猪狩土地の手付金、戊野及び原告に頼まれていた約束の金等に使うと話した旨供述し、そのすぐ後、原告に対し、浜土地関係については、昭和四七年五月中旬以後にはじめて書類を見せて川崎からの融資金を右土地関係に使わせてほしいと話したようにも記憶している旨供述し、その後、川崎からの融資金の使途につき、原告・丁野・戊野に言ったような気も言わないような気もする旨供述した。
ハ 戊野味噌の約束手形提供先等に関する戊野の認識についての乙野供述
この点、本件公訴提起前の供述は、一7(二)(1)(2)のとおりである。刑事第一審では、先ず、第四回公判で、乙野は、昭和四七年五、六月ころ戊野味噌の約束手形でロッテから融資を受ける、右融資分は猪狩土地がロッテに転売できたら右土地代金と相殺されるから、右手形が戊野に取立に回ることはないと言って右手形を出すよう頼んだ、同年七月上旬にもロッテで融資してくれることになったから右手形を振出してくれと頼んだ、川崎から融資を受けることを戊野には話していない旨供述し、第七回公判で、昭和四七年六月ころ、戊野はロッテ以外には使わないから手形を貸して下さいと頼んだ旨供述しており、第二七、二八回公判で、原告は、戊野味噌の約束手形を戊野に振出させるのに乙野が戊野に直接電話したらだめになる、その代わり、戊野に、右手形はロッテに見せ手形として融資を受け、それで猪狩土地を買う、という風にしなさい、と言い、また原告は戊野に対してはロッテから融資を受けると話しているので、戊野はロッテ以外に対しては絶対に手形を振出さない、と再三言っていた旨供述していた。ところが、刑事第一審終了後、福島地方裁判所いわき支部昭和四九年(手ワ)第六号約束手形金請求事件の昭和五四年四月二日の第八回口頭弁論期日における被告本人尋問で、戊野味噌振出の約束手形について、戊野に対し、ロッテ以外に渡さない旨の約束をしたりそれらしいことを言ったことはない旨供述した。また、刑事控訴審では、昭和四七年五、六月ころ、戊野に対し、川崎が尼ヶ崎信用金庫から融資を受け、これを川崎から乙野が融資を受ける、それで、戊野味噌の約束手形及び戊野山林を川崎に入れ、これを川崎が右信金に預けるので右約束手形振出及び担保提供をしてもらいたいと頼み戊野から了承を受けた旨、戊野味噌振出の約束手形をロッテだけに見せるというようなことはなかった、昭和四七年春ころ戊野味噌の約束手形はロッテでは信用しないと戊野に報告した旨供述し、第一九回公判では、戊野に川崎の話をしなかったかどうかはなんとも言えない、その当時は(融資元は)ロッテではなかったと思うが、戊野に確認したかあいまい、していなかったと思う、ロッテに見せるだけということを戊野に説明してもらったとは思っていないがあいまいである、乙野は細かには戊野に話していない旨供述し、その後、昭和四七年七月初めころ、戊野に、川崎の尼ヶ崎信用金庫の件もそのときに話したような気がする旨供述した。
ニ 川崎が平に来た際、在京の乙野と原告及び川崎との間に電話でのやりとりがあったか否かについて
乙野は、本件公訴提起前及び刑事第一審において、川崎が平に来た際自分は盛岡に行っていた旨、従って平の原告や川崎と電話で話をしたことを否定する供述をしていたが、刑事控訴審では、第一三回公判で、平に川崎が来た際、川崎と一緒にいた原告と東京にいた自分が電話をした、やりとりした記憶はない旨、第一八、一九回公判で、平に川崎が来た際、川崎と自分が電話でやりとりし、その際、自分に黙って平に行った川崎の行動を不愉快に感じ、感情的な言葉でやりとりした旨の供述をするに至った。
(二) そこで、右変遷する供述中、刑事第一審の乙野供述に対する被告甲野の供述干渉の有無を検討する。
(1) まず、乙野の刑事第一審における供述が乙野の認識に合致するものであるかを検討する。
イ 原告・乙野間の骨とう品売買に関する事実について
<証拠>によれば、原告は、知人から多額の賃金の代物弁済として譲り受けた相当の値打ちのある孔雀刺繍入屏風一対、中国細工風屏風一対、陶製の龍の置物一個、紫檀製戸棚一個、黒檀製イス、テーブルセット一式、掛軸三幅、香炉二個その他三品の家具、調度品、美術品(いわゆる骨とう品)を特に使用しないまま自宅に保管していたところ、昭和四七年春ころ、乙野にこれらを見せたのをきっかけに、同人に譲る話合いをし、同年八月三一日ころ乙野との間で代金を二〇〇〇万円以内として右家具等を売買する旨約し、同日代金のうち金一〇〇万円を受け取ったが、乙野の要望により、同人が自宅を他に新築するまでの間そのまま預ることとし、現実には引渡しをしなかったこと、昭和四八年一二月ころ、乙野がそれまでに原告に対し、右代金として約一六五〇万円を支払ったことから、原告・乙野間で改めて念書(甲第一三号証の三)で右売買を確認し、代金を一六五〇万円と確定し、この支払を全額完了したことを確認したこと、昭和四九年一二月ころ、乙野・原告間で原告が酒井徳太郎から借り、乙野に貸し付けた貸金の担保がなくなったため代わりの担保として右家具等を乙野が右酒井に提供し、右貸金債務の不履行の場合、処分を承諾する旨約し、その後は原告が右担保として右家具等を預ったが、昭和五三年六月二二日、他に保管を委託中、その多くが火災で焼失したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
ロ 川崎からの融資金の使途に関する原告の知情及び乙野との共謀についての事実関係は、前記三1(三)(1)認定のとおりである。
ハ 戊野味噌の約束手形提供先等に関する戊野の認識についての事実関係は、前記一7(二)(4)認定のとおりである。
ニ <証拠>によれば、川崎がいわき市平に来た際、原告及び川崎と東京の乙野との間に電話でやりとりがあった事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。しかし、右電話のやりとりの内容については、これを特定して認定するに足りる証拠はない。
ホ そうすると、乙野の刑事第一審供述中、骨とう品の売買をしたことがないとし、念書(甲第一三号証の三)の作成に関与したことを否定し、骨とう品を見たことがない旨、昭和四七年に浜土地関係文書を原告に見せ、戊野味噌の約束手形等を浜土地買戻し資金を得るため使わせてほしいと言った、原告がこれを承知した旨、戊野に対し戊野味噌の約束手形をロッテ以外に回さないと言い、原告が戊野はロッテ以外に対し絶対に手形を振出さない、と再三言っていた旨、川崎が平に来た際の原告・川崎と乙野の電話でのやりとりを否定する旨の供述はいずれも乙野の認識に反するものであったと言うべきである。
(2) そこで、乙野が刑事第一審において認識に反して何故このような供述をしたかを考える。
イ 被告甲野の本件公訴提起後の取調べ態度に一般的に強引に有罪を固めようとする懸念があること、乙野、丁野以外の他の証人予定者等に対し、自分の思うような証拠、証言内容を得ようとしたことは前記三1(三)(2)ロに述べたとおりである。
ロ 乙野自身に対する被告甲野の本件公訴提起後の働きかけについては、前記三2(一)(2)認定のとおりであり、二六回にも及びしかも二、三時間以上の長時間の場合を多く含む取調べを実施しており、それ自体補充捜査又は公判準備として異常な量である。
もっとも、被告らは、原告が、本件公訴提起前では単純な否認等抽象的な弁解をしていたのに、昭和五〇年一一月二八日保釈されるや、前記骨とう品関係の念書(甲第一三号証の三)等偽装の疑いの強い書面を提出するなどの具体的な反証行為に転じたため、検察官の側に補充捜査、特に佐川に対する事実の確認の必要性が生じた旨主張する。
しかしながら、<証拠>によれば、刑事第一審においては、第一二回公判(昭和五〇年一二月一一日)から弁護側の実質的な反証活動が始まり、以後第一九回公判(昭和五一年五月一二日)までの間に、被告人質問が一応終了し、かつ弁護側申請の書証、人証等のほとんど全てが取調べ済みとなっていることが認められるのであって、これによれば、検察官側の乙野に対する補充捜査も右期間内に集中して行なわれ、その経過後まもなく終了してしかるべきものと考えられるところ、前認定のとおり、被告甲野は、右期間中及びその前後(昭和五〇年一〇月一三日から昭和五一年六月一七日まで)に、乙野に対し、合計一〇回の取調べを行なった(これだけでも補充捜査としては十分過ぎるほどのものと考えられる)ほかに、さらに一六回にわたって乙野の取調べを実施しているのであって、右一六回の取調べが乙野の公判証言直前に集中していることを考えれば、それが単なる補充捜査を目的として行なわれたものでないことは明らかである。
とすれば、右一六回の取調べは、証人尋問を効率的に行なうための事前確認手続とでも解するほかなくなるが、そのように解するにしてもあまりにも回数が多く、かつ時間が長いのであるから、単に右公判準備としての事前確認手続にとどまらず、右取調べの際に被告甲野が乙野に対して、同人の供述を戊野や丁野の供述等他の証拠との調整をはかり、原告の有罪を得るべき方向に導こうとしていたのではないかとの疑いを抱かざるをえない。
ハ <証拠>によれば、乙野は、刑事控訴審で被告甲野の本件公訴提起後の取調べにおいて、昭和四七年の乙野と戊野のやりとりの件につき、乙野供述のあいまいな点を聞かれたとか、日時等過去の取調べにおける供述等と事実と思われることとの相違点、戊野供述と乙野の認識との相違点について聞かれたとか、被告甲野の質問を受けて初めて乙野が記憶を思い出すということが多かった旨、骨とう品関係念書(甲第一三号証の三)を見せられた旨、乙野の述べることに対し警面調書ではこういうように言っているんじゃないかと言われ、右調書を読まされた旨供述したことが認められる。
ニ さらに乙野の供述内容、その変遷について考える。
先ず、骨とう品の売買関係供述については、刑事第一審の乙野供述は、本件公訴提起前の供述と同一内容であるが、前記一4(三)(1)のとおり、右公訴提起前には制約内容や物品の内容を知りうる関係文書が捜査官の手元に存しなかったのに対し、前掲乙第一号証の三二によれば、刑事第一審での証言時及び被告甲野が事前に取調べた時には既に右関係文書は弁護側申請により公判での取調べを終えていたから、これらにつき公判証言前被告甲野が乙野に対し具体的に事実聴取したとしたら、前記乙野の真の認識から、当然骨とう品を見たかどうか、また念書(甲第一三号証の三)の作成への関与及び骨とう品売買自体につき肯定的な供述があったはずであり、現に乙野は刑事控訴審ではこれらにつき概ね肯定的に供述しているのに、刑事第一審ではいずれも本件公訴提起前の警面調書と同一内容の供述を繰り返しているのであって、ここでは、被告甲野による右警面調書と同旨の供述への誘導のあったことが窺える。
次に、川崎からの融資金の使途に関する原告の知情、共謀についての供述は、本件各公訴提起前及び刑事第一審第七回公判までは、浜土地買戻しに資金の必要なことを原告に話したりしたことから原告は戊野味噌の約束手形を使用して得る融資金は浜土地買戻し等に充てられることを知っていたはずであるなど、原告との黙示の共謀を内容とするものであり、右原告が右融資金の使途を知った時期は、大体、昭和四七年五月末又はその後と言うものであった。ところが、第二七回公判以後は同年三月中旬ころ右融資金の使途について原告と明示の共謀ができた旨の供述に変化している。ところで、前記三1(一)(2)に述べたとおり、丁野は刑事第一審中、昭和五一年五月二一日以降新たに、昭和四七年五月か六月、乙野と原告とが戊野味噌の約束手形で得た融資金を浜土地買戻しに使う旨明示の共謀をしていたのを聞いた旨供述するようになっており、乙野の前記供述変化は共謀の態様、時期とも丁野供述の変化と軌を一にするところ、身柄拘束中の乙野が右丁野の供述の変化を他から知りうるはずがないから、右乙野供述の変化は、被告甲野が丁野供述と整合させるため乙野を強く誘導して供述を変えさせた疑いが濃いと言うべきである。なお、刑事控訴審で、右融資金の使途についての原告との共謀に関する供述が著しく後退していることもこれを裏付けるものである。
さらに、戊野味噌の約束手形の提供先に関する戊野の認識についての供述は、本件各公訴提起前から刑事第一審まで、戊野にはロッテ以外に回さないと言っていたなどの内容であったのが、その後の民事事件、刑事控訴審では、ロッテ以外に回されることや川崎に提供することも戊野に話し了承を得た旨へと劇的な変化を遂げている。そこで、何故乙野が、この点、刑事第一審においても右のような自己の認識に反する供述を行なったかを考えるに、乙野の昭和五〇年四月一八日付検面調書における「この戊野さんに対する件については、正直言いまして決して責任逃れではありませんが、六〇パーセント位坂本に指導され、後の四〇パーセント位が私からの発意だったという気がしております」という供述に典型的に示されているように、乙野が原告を共犯者に引きずり込んで自己の刑責の軽減を図ろうとする意図を有していたことは明らかであり、前掲乙第二三号証の五、六によれば、刑事第一審における供述中に、現にそのような意図からなされた部分が認められるところである。しかしながら、右戊野味噌の約束手形の提供先に関する戊野の認識に関しては、真実を述べた方が自己に有利なのであって、この点をあえて自己の認識に反して供述しているのは、右のような意図からなされたものとは到底考えられず、右供述に至るについては、被告甲野からの示唆、誘導があったものと考えざるを得ない。このことは、この点の本件公訴提起前の関係者の供述について既に述べたところであり、刑事第一審終了後の供述が真の認識に沿うように変化していることからも、右第一審における供述が乙野の任意の供述ではなかったことを窺わせるものである。
(三) 以上三2(二)(1)、(2)に述べたところによれば、被告甲野は、異常とも思える程多数回長時間の取調べを通じて乙野を常に自己の影響下においたうえ、骨とう品売買、融資金の使途についての原告の知情、共謀、戊野味噌約束手形の提供先に関する戊野の認識につき、乙野の供述が戊野や丁野らの供述と矛盾せず、かつ原告に不利な内容で一貫するようその供述に執拗に干渉を加え、その結果、骨とう品売買については売買自体、念書の作成関与、骨とう品を見たかどうかにつき、融資金の使途については時期及び明示の共謀につき、及び戊野味噌の約束手形提供先に関する戊野の認識について、いずれも乙野の認識に反しかつ右干渉がなければ乙野がしなかったであろう原告に不利な供述をさせるに至ったものであり、右干渉がなかったならば、右諸点のうち、骨とう品売買についてはいずれも肯定の供述が、融資金の使途については乙野と原告との黙示の共謀にとどまる供述が、右戊野の認識については、戊野味噌の約束手形がロッテ以外、川崎に回されることを戊野は了承していた旨の供述がなされたものと認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。しかし、川崎が平に来た際原告及び川崎が乙野と電話でやりとりした点については、これを否定する刑事第一審供述は本件公訴提起前から一貫していたことに照らすと、この点につき被告甲野が不当な供述干渉を加え供述を変えさせたものと認めるには足りないものである。
右説示によれば、被告甲野の右干渉行為は、公判準備又は補充捜査等として検察官に許された限度を明らかに越えた違法な供述干渉であり、その際同被告に少なくとも過失があったと言うべきである。
3 その他の証人に対する供述干渉について
(一) 木屋邦吉証人に対する供述干渉の有無
<証拠>によれば、木屋は、昭和五〇年二月一九日付員面調書では、昭和四七年八月下旬ころ、川崎といわき市平に行った際、木屋が平から東京の乙野宅へ電話をかけたところ、女の人が出て乙野はいないし予定もわからないと言われた旨供述していたが、昭和五一年三月二二日付検面調書では右平に来た際、原告及び川崎と東京の乙野との間に電話でのやりとりがあった旨供述していること、右検面調書作成前の昭和五一年一月三一日ころ原告の代理人らが大阪の木屋の事務所を訪れ、木屋から平へ来た際の状況について事情聴取をしていること、木屋は、昭和五一年八月三一日、同日予定されていた刑事第一審第二四回公判の証人尋問のため平へ来て、午前中三〇分程度被告甲野から取調べを受けたのち、右公判に臨んだが、同公判においては、平から乙野宅へ電話をかけたが乙野は出なかった旨前記昭和五〇年二月一九日付員面調書と同旨の証言を行なったこと、以上の事実が認められる。また、前記三2(二)(1)二認定のとおり、この点真実は、昭和五一年三月二二日付検面調書の供述どおりであったものである。これらの事実によれば、木屋は、当初こそ前認定に反する供述をしていたが、原告代理人らの事情聴取によって記憶を喚起し、前記昭和五一年三月二二日付検面調書では前認定のとおりの供述をしたものと一応考えることができる。従って、その後の公判でまた元の供述に戻ったのは不可解というほかなく、右公判直前に被告甲野が木屋の取調べを行なっていることからすれば、その際何らかの干渉行為があったのではないかとの疑念が生ずる。しかし、右のとおり木屋の供述には変遷があり、同人が数年前の出来事を正確に記憶しているとは必ずしも言えないこと、右取調べの時間が短いことなどからすると、右取調べの際被告甲野が木屋に対して不当な干渉行為を行なったとまで、認定することはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
(二) 猪狩ヨシ子に対する供述干渉の有無
<証拠>によれば、本件公訴提起前において猪狩ヨシ子の員面調書が三通作成され、このうち検察官より請求のあった二通が刑事第一審で取調べられていること、同審第一四回公判で弁護人より猪狩ヨシ子の証人申請があり、その尋問事項は、「猪狩ヨシ子が平運輸の役員であるかどうか、戊野に平運輸の手形を振出す権限があったかどうか、同人の発行した平運輸の手形の枚数、金額如何その他関連事項等」というものであったこと、その後被告甲野も第一九回公判で猪狩ヨシ子を証人申請したが、その立証事項は「猪狩ヨシ子及び戊野の平運輸に対する経営関与状況」というものであったこと、被告福島は、証人予定者に対する事前テストのため猪狩ヨシ子に対して葉書及び電話で検察庁に出頭するよう呼出しをしたが、同人が出頭しなかったため、同人経営の真砂不動産株式会社の顧問弁護士に対しても度々電話をかけて同人の出頭を要請し、さらに、同人の公判証言直前の昭和五一年五月八日には、直接同人宅に赴き、同人が不在であったことから、同人の帰宅するのを待って出頭勧告を行なうため数時間同人宅に滞在したこと、被告甲野は、昭和五一年五月一〇日午後二時から八時まで及び翌一一日午後三時から五時までの二回にわたって猪狩ヨシ子の取調べを行なったこと、その際、同人は被告甲野から、戊野が振出したと思われる平運輸の約束手形一〇一通はもう古いので取立に回ることはないだろうと何度も言われるなどして暗に右手形について証言を控えるよう示唆されたこと、猪狩ヨシ子は昭和五一年五月一二日に行なわれた刑事第一審第一九回公判において、証人として出廷し、戊野が猪狩四郎から平運輸の経営を任されていたかどうかはわからないが、戊野は会社の帳簿に記載されていない平運輸の約束手形を一〇一枚発行した旨証言したこと、以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。これらの事実によれば、被告甲野は、その立証事項は既になされていた弁護側申請の尋問事項に含まれる関係にあってさしたる理由がないにもかかわらず猪狩ヨシ子を証人申請したうえ、取調べを行なうため執拗に同人に対して検察庁への出頭を勧告し、同人の公判証言直前に二日間にわたって極めて長時間の取調べを実施し、その際被告甲野が猪狩ヨシ子対して供述内容にわたる干渉行為を行なったものと言うべきである。
しかし、猪狩ヨシ子の刑事第一審における証言は右認定のとおりであって、被告甲野の干渉が同証言ひいては原告の公判審理に影響を及ぼしたものとは認められないから、これが原告との関係で違法な供述干渉と言うことはできない。
(三) 太田市郎及び佐藤光に対する供述干渉の有無
<証拠>によれば、刑事第一審第一四回公判で弁護人より佐藤光及び太田市郎の各証人申請があり、その尋問事項は、佐藤光については、同人が猪狩土地上の地上権者の立退きについて仲介をとろうとしたことがあるか否か等とその関連事項であり、太田市郎については、同人が原告の紹介で昭和四八年ころ乙野と面談したことがあるか否か等とその関連事項であったこと、その後第一九回公判で被告甲野もび太田市郎を証人申請したが、その立証事項は、佐藤光については、「猪狩土地上の地上権者について」というものであり、太田市郎については「昭和四八年ころ原告及び乙野と面会した後の状況」というものであったこと、右両名の証人尋問はいずれも刑事第一審第一九回公判において実施されたが、佐藤光は右公判当日の午前中、太田市郎は右公判期日以前に三〇分程度それぞれ被告甲野から呼出されて、事情聴取を受けていること、右公判において被告甲野が太田市郎に対して発した質問は一問だけであること、以上の事実が認められ、なお、<証拠>によれば、太田市郎の刑事第一審の証言後であるものの、被告甲野は同人を呼出して取調べて調書を取り、その際、同人に対し、原告が悪い男で、乙野と結託して戊野を騙したと話をし、同人がこれを否定すると、同人も原告に騙されていると告げてから取調べを進めたことが認められ、以上の認定を覆すに足りる証拠はない。これらの事実によれば、右両名についての検察官の立証事項は実質的に既になされていた弁護人申請の尋問事項に含まれており、検察官において右両名を証人申請するまでの必要はなかったものと考えられるから、被告甲野があえてこのような証人申請をしたこと、証人尋問直前に右両名と面談していることや、太田市郎に対する質問が一問だけであることなどからすれば、右面談の際何らかの供述干渉行為があったのではないかとの疑いも生ずるが、被告甲野の太田市郎に対し原告を悪く印象づけた行為は右太田の公判証言後においてであることも考えると、以上のような事実のみでは、そのような干渉行為があったとまでは認定できず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
(四) 平井鐵三郎に対する供述干渉の有無
<証拠>によれば、刑事第一審第三回公判において、戊野味噌の約束手形の支払呈示状況等を立証事項とする平井鐵三郎(以下「平井」という。)の警面調書が取調べられていること、刑事第一審第一四回公判で弁護人より平井の証人申請があり、その尋問事項は、昭和四七、八年ころの平運輸副社長戊野四郎振出の手形の支払呈示状況、昭和四七年九月金額一二〇〇万円の小切手を戊野が入手したか、その使用状況及びこれらの関連事項というものであったが、その後第一九回公判で、検察官からも、昭和四八年七月における戊野味噌の約束手形の支払呈示状況を立証事項として平井の証人申請があったこと、平井の証人尋問は昭和五一年五月一二日の刑事第一審第一九回公判において実施されたが、その数日前の同月七日に被告甲野が平井を検察庁に呼出し、二時間程度事情聴取を行なっていること、平井は右第一九回公判当時平信用金庫の常務理事をしていたものであるが、平信用金庫と戊野との間には、平信用金庫の平運輸に対する貸金と戊野の平信用金庫に対する預金との相殺をめぐって昭和四八年ころから紛争が生じており、他方昭和四七年九月一四日乙野が戊野に取得させた金額一二〇〇万円の小切手の平運輸副社長戊野四郎口座への入金及び出金状況をめぐり、平井が戊野に不利益な、またその反面右小切手につき原告の利得のないことを推測させる事実を証言する可能性があったところ、右事情聴取後、第一九回公判直前の昭和五〇年五月一〇日、戊野が平井を尋ね、それまでの態度を一変させて右相殺を了承する旨伝えたこと、第一九回公判で実施された平井の証人尋問において、被告甲野は、自ら申請の立証事項に関してはわずか一言発問しただけであったこと、以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。これらの事実によれば、被告甲野の立証事項の内容これにつき既に平井の警面調書が取調べられていること及び公判での発問状況からみて同被告において平井を証人申請する必要はなかったものと言わなければならないから、これをあえて申請したうえ、平井の公判証言直前に二時間にわたって事情聴取を行なったこと自体不審を抱かせるものであることに加えて、証人平井鐵三郎の証言によれば、右事情聴取の状況は、被告福島の調べは一方的な調べで、右平井の言おうとすることは聞かず、何か言うと法律に触れるなどと言って発言を止めさせ、つまるところ被告甲野の思うように問いに対し肯定的な答をさせるのみのものであったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はないところ、これらの事実を考え合わせれば、右事情聴取の際、被告甲野は、平井に対して供述内容にわたる干渉を加えたものと推認できる。
しかし、前掲乙第三〇号証の三により認められる平井の刑事第一審における証言内容その他の証拠に照らし、被告甲野の右干渉行為が平井の証言ひいては原告の公判審理に影響を及ぼしたものと認めることはできないから、これが、原告との関係で違法な供述干渉と言うことはできない。
4 被告甲野の供述干渉の刑事第一審判決に対する影響について
そこで、被告甲野の丁野、乙野に対する違法な供述干渉が刑事第一審の有罪判決をもたらしたものと言えるかどうかを検討する。
(一) 前掲乙第一号証の五一によれば、刑事第一審判決が本件各公訴事実について原告を有罪と判断したもととした証拠は、同審における戊野、乙野、丁野の各証言、その他関係者の証言、供述調書及び手形、契約書などの証拠書類であるが、同判決は、うち川崎、大東からの融資金が乙野個人の用に費消されるべきこと、また大東からの融資金が、「柏屋」旅館での契約前に出されて乙野により費消されていたかどうかについて、乙野証言のうち昭和四七年三月ころ原告と明示の共謀をしたとの点は措信しないとしたものの、右原告の知情につき概ね乙野証言を信用できるとし、その理由の一つとして丁野証言とも符合するとし、他方、右原告の知情につきこれを肯定した丁野証言を乙野証言と符合するなどの理由で信用できるとし、右原告の知情認定の主要な根拠としたこと、また、戊野味噌の約束手形の提供先に関する戊野の認識について、戊野がこれをロッテに提供するだけであり、ロッテ以外に回されることはないと考えていたことを認めるにあたり、戊野証言の他、乙野証言を、戊野等の証言と符合するなどの理由で信用できるとし、他のこの点に疑問を抱かせる客観的証拠書類が種々あるにもかかわらず、右戊野、乙野証言を主要な根拠として右認定に至ったこと、右判決は原告に相当の利得のあったことを認めつつ、これを有罪につき決定的な根拠であるとの説明はしていないが、原告は乙野の大物振りを信じ同人から利益をあげられるものと考え、これに同調したものととらえており、原告の利得の有無をその心証形成の要素としたものと言うべきところ、右利得の有無を判断するにつき重要な骨とう品売買の有無につき、乙野証言を根拠にこれを否定し、その結果原告に相当の利得を認めたことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
(二) 右認定事実及び三1、2に説示したところによれば、被告甲野が違法な供述干渉によって引き出した前記丁野、乙野の刑事第一審における供述中、丁野の、融資金の使途及び「柏屋」旅館での契約前既に融資金が出、これが乙野に費消されたことを原告が知っていた旨の供述及び乙野の、戊野味噌の約束手形の提供先に関し、戊野がロッテ以外に回すのを承知していたことを否定する供述及び骨とう品売買を否定する供述が刑事第一審の有罪判決をもたらしたことは明らかであり、右供述干渉がなければ、右丁野、乙野の供述が反対の趣旨のものとなり、同審においても無罪判決を得られたものと認めるべきであり、これを左右するに足りる証拠はない。
四保釈取消請求権の濫用
刑事第一審において原告が保釈を取り消され、保釈保証金七〇万円を没取されたことは当事者間に争いがない。
原告は、没取された右七〇万円を原告の被った損害の一部に加える根拠として、被告甲野の保釈取消請求権の濫用を主張するのであるが、前記第三の一で説示したとおり、本件各公訴提起自体が違法なものであり、これがなければ本件公訴提起後の勾留もなく、従って保釈保証金の納付の必要がなく右没取処分もなかったのであるから、右没取処分による損害は、当然に右違法な公訴提起に基づく損害の一部として認められることとなる。従って、保釈取消請求権の濫用の有無を独立に検察官の違法行為のひとつとして判断する必要はない。
第四被告らの責任
一被告国の責任
前記第三で検討したところにより違法かつ過失ありとされた被告甲野の各行為が「国の公権力の行使にあたる公務員がその職務を行なうについて」した行為であることは明らかであるから、被告国は、被告甲野の右行為による本件各公訴提起、有罪の第一審判決によって原告の被った損害を賠償すべき責任がある。
二被告甲野の責任
国が国家賠償法一条一項により賠償責任を負う場合には、当該違法行為をなした公務員個人は直接被害者に対して賠償責任を負わないと解するのが相当である(最高裁判所昭和三〇年四月一九日第三小法廷判決民集九巻五号五三四頁、最高裁判所昭和五三年一〇月二〇日第二小法廷判決民集三二巻七号一三六七頁等)。
したがって、原告の被告甲野に対する本訴請求は理由がない。
第五損害
一逸失利益
本件公訴(約束手形詐欺事件)提起当時、原告が第一生命保険相互会社福島支社東洋支部長の職にあったことは当事者間に争いがなく、原告が昭和五〇年二月二五日に起訴され、同年一一月二八日に保釈許可決定を受けて釈放されたことは前記のとおりであるところ、<証拠>によれば、原告は、昭和五〇年二月四日午前八時五〇分逮捕されて以降、同月六日以後は勾留により身柄拘束を継続され、本件詐欺事件により起訴されたため、勾留を継続され、第一生命より退職勧告を受け、已むなく昭和五〇年二月二七日退職したこと、右のとおり保釈されたものの、昭和五一年六月一五日に右保釈を取り消され、刑事第一審判決直前の昭和五二年三月二八日に再度保釈されるまで身柄を拘束されていたこと、そのためこの間第一生命より支給されるべき別紙逸失利益表AのNo.2ないし4のとおり、但しNo.2については五八万三二六〇円の給与のうち二月分給与として五万五五〇〇円支給されたのみでその余の給与支給を受けなかったことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。そして、原告の右退職及び身柄拘束に伴なう喪失給与中、本件公訴提起によって生じた逸失利益と認めるべきものは、No.2、3、4のうち公訴提起後保釈期間を除いた身柄拘束期間中の相当給与額であり、これは、No.2のうち二月分が公訴提起の翌日以降分で、
291,630円×3/28=31,246円
No.2のうち三月分は二九万一六三〇円
No.3のうち昭和五〇年四月一日から同年一一月二八日まで分で、
5,892,430円×212/366=3,413,101円
No.4のうち昭和五一年六月一五日から昭和五二年三月二八日まで分で、
6,572,288円×287/365=5,167,798円
で、以上合計は、八九〇万三七七五円である。
ところで、原告は、保釈期間中受けるべき給与金額、刑事裁判確定後停年退職予定時までの予定給与額から労働者の平均給与額を差し引いた金額及び停年退職時の予定退職金から現実に支給を受けた退職金を差し引いた金額ならびに停年退職後死亡に至るまで受けるべき年金をも本件公訴提起によって生じた損害であると主張するが、本件公訴提起によって原告が稼働能力を喪失したものとはいえないから、右保釈期間中及び刑事裁判確定後については、原告に経済的損害を認めることはできない。
二刑事裁判費用
<証拠>によれば、原告は本件刑事事件の弁護人として、刑事第一審においては弁護士山野辺政豪、同折原俊克、同坂本徳太郎を、刑事控訴審においては、右三弁護士に加え、弁護士加藤朔郎、同大塚一男を依頼し、その弁護士料金として、第一審につき各人に着手金一五万円宛、控訴審につき各人に着手金三〇万円、無罪の場合の報酬七〇万円宛の支払いを約し、旅費日当宿泊費は日本弁護士連合会報酬規定により支払うことを約したこと、被告人及び右弁護人等は刑事第一審及び控訴審に別紙計算書のとおり出頭したこと、右報酬規定によれば、旅費宿泊費、日当ならびに原告の仙台往復旅費宿泊費は別紙計算書第一表の一、二表記載の額が相当であり、右弁護人着手金、報酬、旅費、宿泊費、日当の合計金額は八九五万一四二〇円であることが認められるところ、本件刑事事件の困難さ、公判の経過その他諸般の事情を考慮すると、右金額は原告が負担を余儀なくされた刑事裁判費用として相当であり、かつ被告甲野の違法行為と相当因果関係にある損害と認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。
三保釈金中没取された七〇万円
右金員をもって、本件公訴提起に基づく損害と認めるべきことは前述のとおりである。
四慰謝料
1 <証拠>によれば、次の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
原告は、大正一五年一〇月八日生まれであり、高等学校を卒業後約二年海軍に勤務し、その後二、三年家業のかまぼこ製造を手伝ったが結核に罹患したことから三、四年闘病生活を過ごした。右病気の治癒後の昭和三一年四月ころ第一生命に入社していわき市平にある同社常磐支部に勤め、約一年半後同支部長となり、昭和三三年暮ころ、右支部の名称変更に伴い同社東洋支部長となり、昭和五〇年本件により退職するまで右地位にあった。右会社内には社員の資格による格付けがあり、上から理事、参与、副参与、主査、副主査の各資格に分かれており、各資格内には更に一、二、三級といった細かい区分がある。給与等の待遇は主として右資格により決まる。原告は、入社以来順調に昇格し、退職当時副参与一級であった。原告が昭和四九年四月から昭和五〇年一月までの間同社から得た給与は別紙逸失利益表No.1のとおりであった。右会社には定年退職制度があり、定年は六一歳と定められており、原告は昭和六二年三月三一日の経過をもって定年退職する予定であった。
原告は、昭和三三年一〇月妻トミと婚姻し、昭和五〇年の本件公訴提起当時は右妻と一二歳になる長女典子との三人暮らしであった。原告は、昭和四九年一月以来右東洋支部の建物の中にある社宅に主として居住していたが、その他いわき市内郷御廐町にも義父名義で居宅を所有していた。
原告は、本件公訴提起により退職することがなければ、定年まで第一生命東洋支部長として勤め得たと思われ、順調にかつ正常に勤務すれば、昭和五〇年二月から定年退職時まで別紙逸失利益表No.2ないし14の程度の給与を得られる見通しがあった。また、右定年退職の場合、同表第2file_3.jpgの退職金、さらに右退職後死亡時まで月額一〇万円の年金を得る見通しもあった。ところが、本件公訴提起により退職した結果、これらの見通しはなくなり、刑事裁判確定後も第一生命への復帰はおろか、他の安定した会社勤務に就くこともできず、自営業を試みるなど細々と稼働せざるをえない状況となった。また、本件詐欺事件の被害額が大きく社会的な耳目を集めた事件となったため、原告は、社会的取引、日常生活を含めて社会的信用を失ない、自営業を始めるにあたり著しい困難を余儀なくされた。
他方、原告の身柄拘束により、妻子は社宅を引き払って親戚の元に身を寄せざるをえなくなり、兄弟の援助を受けつつ妻が内職をし、また第一生命から得た原告の退職金四七九万八四八〇円をとり崩してかろうじて生活を支えた。
原告が重大な経済事犯の刑事被告人となったことから、原告のみならず妻子にまで世間の指弾の目が集まり、その精神的負担は甚大で、特に進学期にあった長女の動揺は著しく、将来の進路変更にまで至った。
現在もなお原告の社会的信用回復は思うに任せていない。
2 右1の認定事実及び本件に顕われた一切の事情により、原告が被告甲野の違法な職務行為によって被った精神的苦痛を検討するのに、原告の本件公訴提起、第一審の有罪判決を経て控訴審において無罪判決を得るまでの六年三か月もの長期間刑事被告人としての立場に置かれ、この間の身柄拘束期間も相当な長さとなっていること、事案の複雑さ、被告甲野らの働きかけ等による無罪判決を得るまでの防禦活動の困難さ、被告甲野の強引な証拠収集等違法な職務行為の態様、とりわけその違法な供述干渉により第一審では有罪判決を宣告されたこと、これらに加え、原告は、本件公訴提起によりそれまでの安定的高収入の得られる勤務先地位の喪失を余儀なくされ、以後社会経済生活において従来に比し著しく困難な立場に置かれ、信用を失墜したこと、妻子にも多大の精神的負担のあったことなどを考慮すると、原告の被った精神的苦痛は非常に大きなものがあり、これに対する慰謝料としては一〇〇〇万円をもって相当と認める。
五原告が刑事補償及び費用補償として合計五七六万八一七〇円の交付を受けたことは当事者間に争いがなく、これを前記一ないし四の合計額二八五五万五一九五円から差し引くと、損害残額として認めるべき額は二二七八万七〇二五円となる。
六弁護士費用
本件損害賠償請求にあたり、原告が原告訴訟代理人らに訴訟委任したことは当事者間に争いないところ、事案の複雑困難さ、審理経過、認容額等に照らすと、原告が被告国に対して賠償を求めうる相当因果関係の範囲内の弁護士費用としては、三〇〇万円が相当である。
第六結論
以上によれば、原告の被告国に対する本訴請求は第五の五、六の金額合計二五七八万七〇二五円及びこれに対する不法行為の後である訴状送達の日の翌日の昭和五七年三月四日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるから棄却し、原告の被告甲野に対する本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき認容額のうち一〇〇〇万円に限り相当として同法一九六条一項をそれぞれ適用し、その余の部分についての仮執行宣言申立及び仮執行免脱宣言の申立については、いずれも相当でないからこれらを却下し、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官高橋一之 裁判官髙田泰治 裁判官庄司芳男)
別紙一
「被告人(原告)は、かねてから猪狩四郎よりその所有にかかるいわき市平字祢宜町所在の宅地約五、〇〇〇坪を坪五万円以上で売却方委任を受け、他方右売却が実現すれば猪狩に対する戊野四郎の債権の回収ができると考えたところから、被告人の受任事務履行の保証人となっていた戊野四郎(当時五六才)とともに乙野二郎に対し同人を通じてロッテ商事株式会社に右土地を売却してほしい旨依頼し同人から「同会社にその申し入れを行ない買取ってくれる見通しは確実である。」と告げられていたものであるところ、右乙野と共謀のうえ、前記会社に対する売却の見込がなく且つ右戊野四郎から約束手形を振出させたのち同手形及び同人の不動産を他に担保に提供して融資を受け同金員を自己ら債務の弁済に充てる意図であったのにこれを秘し、
第一 右戊野四郎に対し昭和四七年七月上旬ごろ、いわき市<住所省略>戊野四郎方で被告人において「兄さんも大変金に困っている様子だがいい方法がありますよ。乙野さんが猪狩さんの土地を買収する方法として、兄さんの戊野味噌の約束手形を出してくれと言っている。その兄さんの約手をロッテに見せ手形として提出し、ロッテから借りるのです。ロッテでは兄さんの約手は絶対流通におかないそうですから大丈夫ですよ。その金で猪狩さんの土地を一応乙野が買取り、ロッテに売ってその代金を直接兄さんに渡すそうです。そうすることによって猪狩さんに貸してある金がスムーズに回収されますよ。」と、東京都足立区<住所省略>乙野二郎方で同人において「ロッテに差入れて融資を受けその金を土地代金の支払いに充てるから額面一、〇〇〇万円の約束手形一八枚を振出してもらいたい。手形は後日ロッテが右土地を買受けた際その代金と差引されて戻される。右手形をロッテ以外のところへまわすことはしない。」とそれぞれ虚構の事実を申し向け右戊野をしてその旨誤信させよって同月二〇日ころ、同人方で、同人から被告人において戊野味噌醸造株式会社戊野四郎振出にかかる額面一、〇〇〇万円の約束手形一八枚の交付を受けてこれを騙取し
第二 同年九月上旬ころ、被告人において右戊野四郎方で同人に対し「兄さん、この前と同じように戊野味噌の約束手形一、〇〇〇万円のもの七枚を追加振出して欲しい。前と同じようにロッテ商事に差入れるだけです。」等と申向け戊野をして前同様誤信させ、よって同月九日ころ同所において、同人から前同様振出及び額面の約束手形七枚の交付を受けてこれを騙取した
ものである。
罪名、罪条
詐欺 刑法第二四六条第一項、第六〇条
別紙二
被告人坂本善次郎、同乙野二郎は、かねて猪狩四郎から売却依頼されていたいわき市平字祢宜町所在の同人所有の約五、〇〇〇坪の宅地を他に売却するあてがなかったものであるが共謀のうえ、戊野味噌醸造株式会社代表取締役戊野四郎(当五七年)に対し、これあるかの如く装い右宅地を一旦被告人乙野において買収する資金を得るのに必要だという口実を用いて、右戊野四郎をして同人及びその長男戊野十郎(当二一年)各所有の山林等を担保として提供させようと企て、昭和四七年七月下旬以降、ロッテに見せるだけである等の口実をもうけて右戊野四郎から前記会社振出名義、額面白地の約束手形及び戊野父子名義の不動産登記済証、委任状等を騙し取ったうえこれを用いて、翌四八年三月二七日ころ、神戸在住の金融ブローカー大東健治から前記会社振出、額面二億五、〇〇〇万円(額面は、被告人乙野において補充したもの)の約束手形を右大東に交付するとともに、右登記済証等記載の山林等を担保にすることを約して、現金二億五、〇〇〇万円を同人から借用し、そのころ自己等の負債返済等に費消してしまったのにこれを秘し、もとより期限に返済して担保を取り戻すあてがないのにこれあるかの如く装い、同年四月一日ころ、同市<住所省略>所在被告人坂本の別宅居間において右戊野四郎に対し、被告人乙野が「私を信用してあなたの物件を担保として提供して下さい。金を借りれば猪狩さんの土地を、私名義に出来ますし、それをロッテに高く売れるので、担保に入れた物件は必らず取り戻せます」等と虚構の事実を申し向け、更らに右申入れに対し承諾をしぶっていた右戊野四郎に対し、被告人坂本が右戊野を同市<住所省略>同人方に送りとどける車内等において、同人に対し「兄さん、乙野さんの言う通りなんだから信用して、やってくれ。乙野さんもああして頼んでいるんだから、何とか協力してくれ。」等と虚構の事実を執拗に申し向け、戊野四郎をしてその旨誤信させ、よって、翌二日ころ、同市<住所省略>柏屋旅館(小湊正経営)二階客室において別紙(一)および(二)一覧表(省略)記載の戊野四郎および戊野十郎各所有の同市<住所省略>所在の山林ほか六三筆(面積合計八六九、三一〇平方メートル)、原野二筆(面積合計三、五九九平方メートル)及び宅地三筆(面積合計約二、六一〇平方メートル)を大東健治に売渡す旨を記載した同人の被告人乙野に対する前記貸金債権の売渡担保の趣旨である売渡証書四通、及び別紙(三)一覧表(省略)記載の戊野四郎所有の同市<住所省略>の畑ほか四筆(面積合計二、七五九平方メートル。以上山林、原野、宅地及び畑の時価合計約四億七、〇〇〇万円)を右大東に対し根抵当権を設定する旨の根抵当権設定契約証書一通に署名押印させたうえ、司法書士岡本正治をして、同日ころ、同市<住所省略>福島地方法務局平支局において、同支局登記官に対し、右事実を原因とする右不動産の所有権移転登記手続ならびに根抵当権設定仮登記及び所有権移転請求権仮登記の各申請をそれぞれなさしめたうえ、同登記官をしてその旨登記手続させ、もって第三者をして財産上不法の利益を得せしめたものである。
罪名、罪条
詐欺 刑法第二四六条第二項、第六〇条